安酒場。ホステスに作らせた薄い水割りをすすりながら、いつも同じ蘊蓄話を語る男。酔って水面の月を取ろうとしておぼれ死んだという、例の詩人の話だ。何度も同じことを聞いてうんざり顔の周囲を気にもとめず、彼は得々としてこう締めくくる。
「あんなふうになら、俺は酒で死んでもいいなあ」
とんだお笑いだ。ぼくに言わせればその詩人は酔い方が足りない。もしその詩人が完全な酔いの中にいたならば、彼は月をつかみ取ることができたはずだからだ。
路地裏。正体をなくした男が、遠い昔のうたをつぶやいている。
「天なる神はわたしの一翼にも値しない。
――わたしは神酒(ソーマ)を飲んでいたのだろうか?」
酔いにまかせて似たような話をもうひとつ。それは水銀になろうとした男の物語。
彼がはじめてその不思議な液体金属に触れたのは小学三年の時。初夏の日射しにくらりと倒れて、保健室へ。ベッドに寝かされて体温計を腋にあてがわれる。だが一瞬腋から力がすうと抜け、彼は体温計を床へ落としてしまう。
油を吸った木の床に、散ったのは銀色の水滴。冷たく硬い光を放つそれは、しかし触れてみるとくにゃりと柔らかい。彼は、ベッドから降りてその不思議な銀のしたたりを集めだす。
保健の先生が戻ってきたのは、ちょうどその時だった。
「まあ、体温計割っちゃったのね……あっ、水銀にさわっちゃだめ! それは毒なんだからね、さわると毒よ!」
そのことばが、彼の水銀に対するあこがれを決定的なものにする。
長じて、彼は自分の労働とその代価を手にするようになる。そのはじめての給与で彼が買ったもの、それは体温計百本。まっすぐ家に帰って、彼は自分の部屋でその体温計を一本ずつ折ってゆく。
ぱきん。ぱきん。
テーブルに、銀のしずくが盛り上がる。百本目の体温計を折った時、テーブルは銀の海になっていた。
彼はその手触りを堪能する。金属の冷たさを持ちながら、しかしその柔らかさにもっとも近いものを探せばそれは人の肌と言うしかない。無用なぬくもりの排除された柔らかさ。彼はずっとそれを追い求めていたのだ。ずっとずっとむかしから。
彼は、自分もそんなふうでいたいと思った。自分のからだの水分が、すべて水銀に置換されればと思った。
そうして、彼はテーブルに広がる水銀をすすりはじめた。
わたしは大地のそこここを焼き、そして破壊しようとする。
――わたしはソーマを飲んでいたのだろうか?
ぼくらはほんとうはその手で水面の月をつかむこともできるし、空を飛ぶことだってできる。ことばやからだを使わずに人と交わることもできるし、望むならば世界を焼きつくすこともできる。いまぼくらにそれができないのは、つまりいまのぼくらが完全ではないからだ。ぼくらの五体はひきさかれてばらばらになってしまった。だからぼくの頭が月をつかめと命じても、遠く離れたぼくの手にはそれがうまく伝わらない。肉だとか血だとかいったくだらないものの抵抗を受けてわずかに残った「ツカメ」という指令だけを、手は無為に実行してみせる。そしてその空虚な感触はまた長い旅を経て、あきらめだけを頭へともどす。そういうことを幾度も繰り返して、ぼくらはいっそうばらばらになっていく。
離れてしまったぼくの頭と手、ぼくの頭と足、ぼくの頭とからだ、それらの間をなにか適切な媒質で満たさなくては。そうすれば、ぼくは完全に近づくことができる。ぼくの思いのとおりに手が動くように。ぼくの思うところへ足が動くように。ぬるぬるした肉とか体液とかじゃなくて、もっとこころをしっかりと伝えるものを媒質として。
だから、ぼくは今夜も酒を飲む。
「それで……?」
「え?」
「彼は、水銀になれたの?」
「彼は、水銀にはなれなかった。でも、水銀に近い存在にはなれた」
「……で、それとあなたとどういう関係が?」
「ぼくはね、琥珀になりたいんだ」
「言い訳としては面白いけれど、それであなたは本当に琥珀になれるのかしら?」
「さあ。琥珀にはなれなくても、琥珀に近いものにはなれるかもしれない」
そこで彼女は席をたち、彼に背を向けて言った。
「じゃあ、その時にまたあなたに会いに来るわ。うまく琥珀になれたらブローチにしてあげる」
ときどき、考える。
もしかするとあの詩人は、ほんとうにその手で月をつかんでいったのかもしれない。
だから、もうここにはいないのかもしれない。
――わたしは、ソーマを飲んでいたのだろうか?