ト・アペイロンを記録するホログラフィのための干渉縞



−X−


・病院
 まぶしい光。ぼくは病院の一室で、真っ白なタイルでできた空をずっと眺めていた。この部屋には時計がない。だから、ぼくは自分がもうどのくらいこの部屋にいるのかわからなくなっている。この部屋には窓もない。だから、ぼくは今が昼なのか夜なのか、自分が眠っているのか起きているのかがわからなくなっている。
 部屋の中にはぼくの寝ているベッドの他にはほとんど何もない。音もない。ただ真っ白い壁がぼくを取り囲む。ああ、そうだ、ついでに言うと、この部屋には扉もない。いろいろなものがこの部屋にはないけれど、それはすべて必要がないからだ。

・ベッド
 ぼくは、時々ベッドの下をのぞきこむことがある。ベッドから降りることはできない。ぼくの腕からは透明のチューブが伸びて、うす青色の液体がそこへひっきりなしに注ぎ込まれている。このチューブが取れてはたいへんだ。だからぼくはこのチューブが取れないように注意して、上半身だけをそろりと下へ向ける。あらかじめ目を光の方向へしばらく向けておくと、ベッドの下の暗闇にいろいろな残像が見える。それらはいろいろなかたちをつくってぼくを楽しませる。でも、気をつけなければならないのはこれらのものが「何であるか」を考えてはいけないということ、名前をつけてはいけないということだ。これらが「何か」になったとたんに、これらは何でもなくなる。それはとてもかなしいことだ。

・壁
 ベッドの中で、こんな話を読んだことがある。
(誰かに聞いたのだったっけ?)
 男がとても高い塔の中の、とても長い螺旋階段を昇っている。その塔は巨大な石英の一枚岩を削り出しくり抜いたものだ。壁はその厚さにもかかわらず外の光をほのかに透かしているので、内部は真っ白な光に満ちている。かつかつと足音を響かせながら、男は石英の階段を頂上へ向かって昇っていく。ただ昇っていく。
(……それだけ?)
 それだけ。これから話がどのように続くのか、男はこの先どうなるのか、この塔は何なのか、そもそもこの話に続きがあるのかどうか、ぼくは知らない。だから、ずっと憶えている。

・点滴
 ベッドの下をのぞきこむ不自然な姿勢を続けていると、腕がねじれて血がチューブを逆流する。それはガラス容器の中のうす青色の液体の中へ流れ込み、まるで黒い花のようにふわりと広がる。あわててベッドの上に体をもどすと、血液はやがてうす青い液に拡散してもう一度ぼくのからだの中に入ってくる。なにか、とてもうれしい気持ち。


−Y−


・草原
 まぶしい光。ぼくは草原の真ん中で、真っ青なガラスでできた空をずっと眺めていた。風にそよぐ草が、ヒトには決してわからないことばでうたを紡ぐ。でも、そのことばを感じる方法がないわけではない。草むらに寝そべると、揺れる草がぼくの肌をなでる。その感触から、ことばの意味を推し量ることは可能だ。でも、ぼくはそれを試したことはない。なぜなら、もしかするとそれはとても恐ろしいことかもしれないからだ。

・花
 草原の植物にも、ささやかな花をつけるものがある。ぼくのお気に入りは、この赤い花。赤いというよりは限りなく黒に近い、その色が大好きだ。花弁を指ですり潰すと赤黒いその色が指先を染める。なめてみると、なにかとてもなつかしい味がする。ただ残念なことに、ぼくはこの花が何と言う名前なのかを知らない。何度か自分でこの花に名前をつけようと思い立ったことがあったが、なぜかいつも途中でやめてしまった。

・階段
 ぼくがこの草原にいつ、どういう道をたどって来たかはもう忘れてしまった。それがずいぶん昔のことだったからかもしれないし、ただ単にぼくが忘れっぽいというだけなのかもしれない。どのみち、そんなものを憶えている必要はぼくにはないのだ。来た道を戻ってもとの所に帰る気はないし、そのもとの所というのがどういう所かももう忘れてしまった。ただひとつだけ憶えているのは、長い石の階段を昇る自分。とにかく高い所へ行かなくては、と思ってその記憶の中のぼくは階段を昇っているのだった。その階段の行き着く先がこの草原だったのだろうか。それとも、まだ途中なのだろうか。いや、もしかすると……
 そこまで考えて、ぼくは眠くなった。またくだらないことを考えてしまったなと思って、ぼくは少しだけ笑った。


−Z−


 すべては解析されてしまった。分析され、分類され、名付けられ、隔離されてしまった。そうして、世界は廃虚となった。
 解体せねばならぬ。権威を、価値観を、共同意識を。解き放たねばならぬ。すべてを。すべてから。
 自然法則は公式化された。思想は右から左へと整理された。ぼくらは空欄に単語を埋めればよい。四つの答えから「もっとも適当な」ものを選べばよい。テクストに従え。それ以外を排除せよ。

 昔誰かがこう言った。
「万物は 無規定のものから成っている」
 無規定のものが規定されることによってこの世が成り立っているとすれば、この世は生まれながらにして廃虚なのか。

 解体せねばならぬ。だからこそ。



(またくだらないことを考えてしまった)
(もしかするとそれはとても恐ろしいこと)
(それはすべて必要がないから)
(……それだけ?)




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