ビー玉眼玉

 ある日、自分の右眼がただのビー玉であることに気がついた。とたんにぼくの右眼は見えなくなった。世界の右側がぼくのものではなくなった。
 気づかない方がいいってことが世の中にはあるもんだなあとちょっと後悔をしたが、それでも仕方がないのでそのまま暮らすしかない。とりあえず、周りの人間にはないしょにしておこうと思った。

 会社までの道のりはなかなかスリリングだった。ぼくのものでない右側から突然人や自転車や電柱が飛び出してきて、ぼくは何度もぶつかりそうになった。でもこれもきっとそのうち馴れるだろう。今までだって後ろが見えなくても何の支障もなく歩けていたのだから。
 オフィスに入ると、いつものように同僚や先輩たちから「おはよう」と声がかかった。ただいつもと違うのは、それが声だけだということだ。たぶんみんなたまたまぼくの右側にいるんだろう。まあ、これも仕方がない。
 いつものように八時間とすこし仕事をして、日が暮れた。そのあいだぼくはほとんど仕事仲間の顔を見ることがなかった。左眼を相手に合わせても、いつのまにかみんな右側へと消えた。ちょっと不安だったけど、そんなにイヤでもなかった。声だけの「おつかれさま」と「ごくろうさま」をもらって、ぼくは家に帰った。

 休日には彼女と会った。彼女と街をぶらぶら歩くのが週に一度のぼくの楽しみだった。彼女はぼくの右側に寄り添うのが常だったが、今日はさりげなく彼女が左側につくようにして歩いた。彼女に先導してもらわないと、日曜の歩行者天国はさすがに歩けなかった。
 彼女はいつも街角に面白い店を見つけては立ち止まり、めずらしいものを見つけては早足でそちらへ進んで行く。今までだったらそれでもよかったけれど、そのたびに彼女がぼくの視界から消えるのは怖かった。何度か見失ってきょろきょろと探し回ると、彼女はたいていぼくのすぐ右側に立っているのだった。
 でもまあ、これも仕方がない。きっとそのうち馴れてくる。ぼくは歩きながら、そっと左腕を彼女の肩にかけた。
 すると、彼女はまた急に立ち止まった。ぼくの腕はするりと彼女からはずれた。左側を振り返ると彼女はいなくなっていた。そして、右の方から声が聞こえた。
「ねえ、この置時計かわいいね」
 ぼくは「そうかな」と答えてから、その言い方がすこしささくれて彼女の耳に聞こえたのではないかと案じた。事実、ぼくはちょっとだけいらいらしていた。馴れるまでは仕方がないけれど、時間がかかりそうだなとその時思った。
 ぼくはもう一度彼女の肩に左腕を添えて歩いた。彼女はすぐその腕をはずして、路上で芸を見せているジャグラーのところへ走っていった。後を追ってきたぼくの右手をにぎって、「おもしろいねえ」と彼女は笑った。右側に隠れるまぎわに見た彼女の笑みは、もしかするとジャグラーの芸に向けられたものではないのかもしれないとふと思った。
 ぼくらはまた歩き出した。ぼくは左手で彼女の肩を、今度は力を入れて抱いた。
 彼女はその腕を振りほどいた。
 今度ははっきりとわかった。ぼくはしばらく黙って歩いていたが、街のはずれで歩を止めて彼女に聞いた。
「ねえ……ぼくを避けてる?」
「なんで?」
 ぼくの右側で声がした。

 つぎの日にはまた会社に出た。やっぱりみんな右側へ右側へと回り込んでぼくに接しているようだった。ぼくの右眼がビー玉だってことにみんな気づいて、それでいたずらをしているのだろうか。いや、ぼくが自分の右眼がビー玉だってことに気づくずっと前から、あるいはみんなそのことを知っていたのかもしれない。みんながずっとぼくの右側に隠れていたということを、ぼくだけが気づいていなかったのかもしれない。
「すみません、この台帳お願いします」
 ぼくの右側で女子社員が言った。
「よう、今晩いつもんとこで飲みに行こうぜ」
 ぼくの右側で同僚が言った。
 それらの声に答えながらぼくは、ひょっとすると自分の左眼もほんとはただのビー玉なのかもしれないなあと考えはじめていた。




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