放課後。理科室。広い実験テーブルの上に腰かけて、わたしはキリオくんの手元をぼんやりと見ていた。キリオくんは青や緑の薬の粉を、馴れた手つきでビーカーの中の水に溶かし入れている。
「ねー、まだ終わんないの?」
「んー」
わたしの質問に生返事だけを返して、彼はただ黙々と色水を作っている。
キリオくんは理科部部長だ。といっても、わたしは理科部なるものが活動してるところも、キリオくん以外に部員がいるところを見たこともない。ただ理科の教員たちからはどういうわけか信頼されているらしく、理科室の合鍵が彼には預けられているのだった。だからキリオくんは、自由に理科室に出入りできるのだ。
「いったいさ、なに作ってるわけ?」
わたしは、ほうっておけば日が暮れるまで薬を溶いていそうなキリオくんにいらだちはじめていた。でもキリオくんはほんのすこしの頭の動きで窓辺のスチール棚を示すだけだった。
「あれ」
見ると、そこにはキリオくんの手元にあるのと同じ大きなビーカーが並んでいた。ただ、ビーカーの中にあるものは色水ではなかった。ほとんど透明の水の中に、樹氷かサンゴのように伸びる色とりどりのかたまり。
「ケミカルガーデン」
キリオくんがそのオブジェの呼び名らしいものをつぶやいた。
「ケミカルガーデン?」
「そう。濃い水溶液を置いとくとやがて中の溶質がひとつの結晶をつくる。うまくやれば、こんな木みたいなかたちになる」
あるものは細い針のように、あるものは雲母板のように、あるものはまっすぐ、あるものはうねり曲がって、結晶はたしかに樹木のかたちに成長していた。そのどれもが透きとおった、はかなげな色をしている。赤、青、紫……それは着色された色ではなく、そのものが本来持っている色。
「学園祭の出し物にしようと思って。ずらりと並べたら、『くすりの森』の完成」
わたしはしばらくこの森を眺めていた。ずっとそうしていてもよかったのだけれど、ほんとうはわたしはこんなものを見るために来たんじゃなかったのだ。わたしはキリオくんの方に向き直った。
「ねえ……あれ、やろうよ。出してきてよ」
「ん。もちょっと待って」
キリオくんは手にしていた薬品をゆっくりとビーカーにそそぎ、それが終わってからやっと立ち上がった。ポケットから合鍵の束をじゃらりと出して、となりの理科準備室に向かう。
わたしがキリオくんにくっついて理科室にくるのは、別に理科に興味があるからではない。キリオくんがいないと……というより理科室でないとできない「あそび」をするためだ。
しばらくして、キリオくんが茶色い小瓶と脱脂綿を持ってもどってきた。テーブルにトンと置いた小瓶にはクロロホルムが入っている。解剖動物を気絶させる、あの薬だ。
キリオくんは脱脂綿をふたつちぎってそれぞれに薬品をしみこませる。これを吸うのが、わたしたちのあそび。キリオくんはわたしが言わなければこのあそびをすることはないけれど、するときにはかならずつきあってくれる。
「じゃあ、いっしょに吸い込んでね」
わたしがいつも言う念押しのことば。キリオくんは返事をせずに脱脂綿を口にあてがう。そして。
すう、と吸い込む。
べつにこれでなにかが見えるとか、陽気になるとかいうのではない。ただ、気が遠くなる。しばらく眠って、三十分ほどでまた起きる。それだけ。気を失う瞬間のあの感じが忘れられなくて、だからわたしはわざわざキリオくんに頼んで理科室に入れてもらうのだ。
実験テーブルをベッドにして、わたしとキリオくんは横たわる。キリオくんの首がだらりとしたのを確かめたその数刻後、わたしも眠りに落ちる。
目が醒めると、あたりはまっしろな平原だった。空と地平線の境界もさだかでないうつろな場所のあちらこちらに、さまざまな色をした枯れ木のようなものが立っている。どこかでこんな風景を見たな、と考えていたわたしは、やがてもっと重大なことを思い出した。
ここは理科室じゃない。
たしかに理科室のテーブルの上に寝ていたはずなのに。わたしはあわてた。そうだ、キリオくんは? キリオくんはどこにいるのだろう。
わたしはキリオくんの姿を探した。そして、しばらくして大きな翡翠色の枯れ木のそばにたたずむ人影をみつけた。
「キリオくん!」
キリオくんはわたしに気づいてくれたらしく、伏せていた顔を上げてみせた。眉だけを動かして反応するその無愛想な顔を見て、わたしは安心した。間違いない。彼だ。
「やあ、おはよう。よく眠っていたね」
彼はなにごともなかったかのようにそう言った。
「ねえ、いったいどうなっちゃってるの? 学校は? わたしが寝てる間になにが起きたの?」
わたしが早口でまくしたてると、キリオくんは静かに語りだす。
「きみが眠っている間にね、雨が降ったんだ」
「雨?」
「そう、雨。たくさんたくさん、何年も何年も降り続いた。そうして、世界は完全に水びたしになってしまった。それからさらに何年もかけて、この世のすべては水の中に溶けていったんだ」
キリオくんは傍らの木に手をやって、続けた。
「そのあと水に溶けたものたちは、さらに長い時間をかけてそれぞれに結晶を作っていった。いままでいろいろなものが混じりあってできていた世界は、分子ごとの純粋な単結晶に再構成されていった。結晶はどんどんと成長を続けて大きな木のようになり、それは水がひいてもこうやって残っている」
わたしはキリオくんのそんな説明を、ただぼんやりと聞いていた。
「この青いのは銅の結晶。電線やコンピュータの回路から分離したもの。あっちの赤いのは鉄で、手前の灰色のはカルシウムかな」
キリオくんがそれぞれの結晶をいとおしそうになでながらひとつひとつに解説を加えているのを、わたしはさえぎって言った。
「……よかった」
「なにが?」
「よかった。世界がこんなになっちゃっても、わたしとあなたはこうやってここにいる。ほんとうに、よかった」
わたしがそう言うと、キリオくんは怪訝そうに眉を上げた。
「ぼくはここにいるけど、あなたはもうここにはいないよ」
「え?」
「あなたのからだも同じように水に溶けてしまって、あなたをつくっていた要素ごとの結晶になっているよ」
キリオくんはこともなげにそう言った。
「ど、どういうこと? だってわたしはちゃんとここに……」
わたしは自分の居場所を示そうとした。でも、そのときはじめて、わたしはわたしのからだがどこにも存在しないことに気づいた。
「じゃあ、じゃあ、いまあなたと話してるわたしはだれ?」
「それぞれの結晶の、あなたを構成していた部分が共振してるんだ。それだけ。ほら、このカルシウムのかたまりのちょうどこのあたりが、あなたの骨だったところ」
そう言ってキリオくんは白い柱の一部分を示した。わたしはとてもかなしくなった。自分のからだがなくなってしまったからではなく、キリオくんとちがってしまったということに。
「ねえ、なぜキリオくんはそのままなの?」
わたし――いや、むかしわたしだったものたちが、尋ねた。
「ぼくは、もともとひとつのぼくだから」
ああ、そうだったのか。わたしは自分だってもともとひとつのわたしだと思っていたけれど、ほんとうは違っていたのだ。純粋なひとつのものでできているのではなくて、いろいろなものが混じっていたのだ。わたしはもっともっとかなしくなった。キリオくんは、ただ笑っているだけだった。
「よく寝ていたねえ」
キリオくんのささやきを聞いて、わたしは意識を完全にとりもどした。
「夢を、見てたの」
「ふうん」
キリオくんはそれだけ言って、むくりと起き上がった。夢の中身を聞かないのは、キリオくんがそういうひとだからだ。
わたしは額に浮いた寝汗を軽く手でぬぐって、からだを起こした。ゆるゆると頭が回転を始める。
「そろそろ暗くなるからさ、閉めるよここ」
キリオくんがカーテンを引きながら言った。
「あ……」
「なに?」
「その、ケミカルガーデンだっけ、ひとつくれない?」
ちょっと無理なお願いかもしれないとは思ったけれど、キリオくんはこともなげにさっき作ったばかりのビーカーを差し出した。
「いいよ。まだ育ってないけど、これ持って帰りな」
キリオくんはわたしにうすももいろの水溶液の入ったびんをくれた。
わたしはそれを部屋のかたすみに置いたが、しばらくたってもちっとも結晶は育たなかった。場所が悪いのかと思って何度か変えてみたが効果はない。キリオくんに言っても彼は「もうちょっと待てばだいじょうぶ」というばかりだ。結局わたしは飽きてきて、ひと月目の朝それを流しに捨ててしまった。