1. ファーブル
記者たちがファーブル宅を訪れたとき、彼らを迎えたのは家政婦であった。
「まあまあ、遠いところからどうも。ファーブル先生は今むこうの森まで昆虫を取りに行っておられますの。もう少ししたらお帰りになりますんで、まあ上がってお待ちくださいまし。しかしなんですよ、先生ほど虫たちを愛しているお方はおりませんわね。何しろ先生は、子供の心をお持ちなのですから」
ファーブルの籠の底は、もうすでに虫たちで真っ黒になっていた。変わりばえしないものばかりだ、ファーブルはそう思った。そろそろ切り上げて森を出よう。ファーブルが腰を上げたその時、彼はふと奇妙なものに目を留めた。シダの葉の間から、何やら羽根のようなものがのぞいている。ファーブルは網を振り下ろした。捕えられたものをよく見ると、それは虫ではなかった。白い肌、金の髪、おびえきった少女の表情。体長二十センチほどの、それは妖精だった。ファーブルはこの本日一番の収穫を、無雑作に籠に詰め込んで家路を急いだ。
待ち構えていた記者たちを無視し、ファーブルは研究用の部屋にたてこもった。籠を逆さまにし、虫たちを机の上にふるい落とす。虫たちはよろよろと起き上がるが、ファーブルはそれらをすべてガラス箱に払い落とした。ファーブルは机に残した妖精をつまみ上げ、解剖台にピンで固定する。ファーブルが子供の心を持ち続けていると言うのなら、それは決して間違ってはいない。子供たちが蟻の巣に水を注ぎ、蝶の羽根をもぎ取るのと同じようにファーブルは解剖を楽しみ、そしてすぐに飽きた。面白くもないといった顔で、ファーブルは手を洗う。解剖台に残った赤い塊は、カラカラに乾いた虫たちとその部品のひしめく箱に投げ入れられもう二度と顧みられることはない。
2.ガラスの外
面積二十五平方メートルの白い部屋、それが彼の宇宙だった。九年四ヵ月にわたる彼の人生は、それに先立つ十ヶ月を除いてすべてこの中で営まれた。母の胎内での十ヶ月は、少なくとも母に触れていられたという点で今よりずっと幸福であった。母は今、ガラスに映し出される平面でしかないのだ。母の手のぬくもりは厚さ十五ミリの二重ガラスによって遮られ、母の優しい声はスピーカーの作り出すこもった音波としてしか感じることができなかった。
部屋の反対側には、草原が広がっていた。もしここもガラスで仕切られていなかったら、彼は迷わずむこうの森まで駆け出していっただろう。しかし、こんなにも魅力的な外の世界は実は毒に満ちており、それに対する抵抗力を持っていないのが彼の悲劇だった。
彼は、自分がモルモットであることに薄々気づいていた。いつも母の後ろでせわしく動いている白衣の男たち、あいつらが僕を調べているんだ。彼は、いつかこの狭い部屋を抜け出してあの森へ行くことを夢見て眠った。
夜、ガラスのむこうの男たちも寝静まったころ、外へ続くガラスを誰かが叩く音に彼は目覚めた。彼はガラスの外を探したが、音の主を見つけるのには少し時間がかかった。なぜなら、それはほんの少しばかり不思議な客だったからだ。
妖精。絵本の中にいた妖精と同じものが、ガラスのむこうで笑っていた。いっしょに森へ行こう、そう妖精たちは言っているようだった。彼は今すぐ妖精について外へ出たかった。しかしそれが無理であることが彼にはよくわかっているのだ。彼のあきらめの表情を妖精たちは読み取って、また笑った。ちょっと待って、そんなジェスチュアを妖精のひとりがしたような気がした。次の瞬間、ピィンという音とともに目の前のガラスがくだけ散り、彼の髪をはじめて風がなでた。妖精たちが彼の服を引っぱる。彼は一瞬ためらったが、彼の足がかつてガラスで仕切られていた一線を越えたとき、恐れも消えた。この世界は僕のものだ。そうだ、森へ行こう。妖精たちといっしょに森へ行こう。彼は力の限り走った。後ろで母や男たちが叫んでいる。でも彼は振り向かなかった。風が心地よかった。
森では、何人もの妖精が彼を待っていた。母の陰気な顔でも、男たちの冷たい顔でもない表情をみんなが浮かべていた。ここでなら楽しく暮らせる。そう思うと、彼は急に眠くなった。やわらかい、心地よい空気が彼を支配した。妖精たちが笑っている。彼は土の上に体を横たえ、深く息を吸った。意識が遠のいて行く。風のにおい。土の、水の、木の、そして……
少年の上着が妖精たちによってゆっくりと脱がされる。水晶を磨いて作ったナイフが少年の白い肌に沈み込み、中からあふれ出したものはまるで赤いガラス細工のように透きとおって美しかった。
3.びんづめの妖精
彼の研究室は、閑静な森のそばにあった。僕は彼に呼ばれてその研究室を訪れたのだ。旧交を懐かしむ暇もなく彼は僕を地下室に引っぱり込み、どこまでも続く標本のただ中に置き去りにした。軟体動物から爬虫類、獣、そしてヒトまでがびんに詰められて整然と並んでいた。薄暗い中、どこからか漏れてくるほのかな光を受けてびんは青白く浮かんでいた。なぜか、水族館を僕は連想した。
「何してるんだ、はやく来いよ」奥の方から彼の呼ぶ声が聞こえた。僕は我に返り、標本の森を抜けて彼の方へ急いだ。そこは、ガラス張りの壁だった。のぞいてみな、そんな仕草を彼はした。僕がガラス越しにむこうの部屋を見ると、何匹かの虫がいた。虫……違う。たしかにその透き通った羽根は昆虫のものだった。しかしそれ以外の部分は――人間、だった。これと同じ姿のものを僕は知っている。
「見てのとおり、妖精だ。少なくとも僕らはそう呼んでいる」
彼はこともなげにそう言った。
「むこうの森で採取した」
「生物……なのか?」
「もちろん。二体ほど解剖したが、構造は驚くほどヒトに似ている」
そう言って彼は、脇に置いてあった「妖精」の標本を見せた。それは完璧なヒトの身体のミニチュアだった。中心に据えられたルビーのような心臓。肺を透かして見える精緻な気管。ゼリーのようにやわらかに、なまめかしくうねる腸。僕はしばらくの間この芸術に見入っていた。
「君の意見が聞きたいんだ。この代物をどう解釈すればいいのか」
そんなことは、僕にはどうでもよかった。今の僕を支配しているものは、未知のものの構造を知る好奇心と快感だった。子供がおもちゃやラジオ、そして昆虫を分解するときのような。
「ひとつ、持って帰っていいかな……」
階段を上りながら、僕はたずねた。
「いいよ、まだ森に行けばたくさんいる。かなり大規模なコロニーを作っているようだからな」
彼は、窓の外の森を眺めながら言った。と、その時、ふと視線を下に向けた僕は窓ガラスのそばに何かがいるのを見つけた。
「これも……そうか」
妖精は、愛らしい少女の顔をこちらに向けていた。その表情は微笑のようにも見えたし、もっと別のものにも見えた。
「おい、一匹じゃないぞ」
彼が言うより早く、妖精は見る見るうちに窓に集まってきた。そのどれもが、あの少女の妖精と同じ表情を浮かべていた。
地下室の方で、ガラスの割れる音がした。気がつくと僕らの前の窓ガラスも粉々になっていた。何か、懐かしいにおいが僕らを包んだ。沈み込んでしまいそうなけだるい空気の中で、僕はこの妖精たちの羽根を動かす筋肉の構造がどんなものかをずっと考えていた。