夜の船

 真夜中。水銀灯をたどって街を歩く。ああこれは夢なんだな、ということにゆっくりと気づいて、それでも止まらずに歩く。
 遠くにひときわ明るい光。あれは、コンビニエンスストアだ。九時に塾を終えた後の、僕らの溜まり場。入口に友達のタカシがいる。僕はそこへ駆け寄って行った。
「ねえ、こんな時間に何してるのさ?」
 声に振り向いたタカシの顔を見て、僕はほんの少しどきりとした。何か、いつものタカシとは違う。でも何がどう違うのか、それはわからなかった。
「何言ってんだよ、俺お前が来るのを待ってたんだぜ」
 タカシは怒ったように言った。それがどういう意味なのかはわからなかったが、僕はなぜか上級生に叱りつけられた時のようにびくりとした。
「え?」
「早く来いよ。もうすぐ船が出る」
「船?」
 僕がぽかんとした顔を見せると、タカシはあごで上の方を指した。つられてそちらに目をやると……船だ。コンビニの建物のうしろで、ビルみたいに大きな船が月あかりに照らされて浮かび上がっている。
「……これに、乗るの?」
「当たり前じゃないか、そのために来たんだろ? ケンジもターチンも小泉も柴田も、もうみんな乗ってんだぜ。後は俺たちだけだ」
「みんな? みんな来てるのか?」
「早く来いよ!」
 タカシは僕を置いてすたすたと歩いていった。僕はあわててついていく。コンビニの自動ドアを抜けると、そこはすでに港だった。長いタラップが船にかかっている。僕はタカシを追ってそれを上っていった。その間タカシは話はおろか、振り向くことさえしなかった。
 しばらくして、僕らは甲板についた。クラスの友達や塾の仲間が、大勢集まっていた。ケンジたちもいる。僕は手を振ったが、ケンジたちはこちらを振り向いただけだった。
「なんだ、遅かったじゃないか」
 ターチンが静かに言った。いつも一番はしゃぐ奴なのに、妙に落ち着いている。
「そうよ、もう少しで間に合わなかったところよ」
 小泉が言った。それは僕には、母親が子供をたしなめるように聞こえた。
 僕はみんなの雰囲気がいつもとまるで違うのに戸惑っていた。なぜみんなこんなに静かなんだろう。なぜこんなに落ち着いているのだろう。なぜこんなに……近寄りがたいんだろう。
「なあ、みんな……」
 僕がそう言いかけた時、それまで小泉の後ろにいた柴田の姿がふと見えるところに現れた。それを見て、僕は出かかっていた台詞をみんな忘れてしまった。
 柴田由起子は僕のすぐ向かいに住んでいる、幼なじみだ。家族そろって親しく、小学校に行く前はよく御飯をごちそうになったりいっしょにお風呂に入ったりしていた。でも、今ここにいるのはその見慣れた柴田ではない。薄暗い中に浮かぶ彼女のからだは、ゆるやかに、でもはっきりとした起伏をつくりだしていた。ふっくらと張り出して、僕ら男子とはまったく違うものになってしまった胸。どこもひっかかるところのない完璧なカーブを描く、腰。足。そこから容易に想像できてしまう、肌。僕はそれを見て、前に隣のお兄ちゃんにこっそりポルノ雑誌を見せてもらった時と同じような、そしてその時よりもずっと激しい感覚に襲われた。……怖くなったのだ。
 そうして、はじめて僕はこの船の「行き先」に気づいた。タカシもケンジもターチンも小泉も柴田も、そして他のみんなも、この船でそこへ行ってしまう。しかし、僕がいちばん恐ろしかったことはもっと別のこと……そう、「同じ船に僕自身も乗っている」ということなのだ。
 ぐらり、と船が揺れた。足元が急に不安定になる。甲板のあちこちで、ざわめきが聞こえる。
「船が、出る」
 それまで口をきかなかったケンジが、つぶやくように言った。だがその声は、僕の知っているケンジの声ではなかった。響くような、野太い声。
 汽笛が鳴る。軽い律動が甲板に走る。僕は船縁に駆け寄って、下をのぞきこんだ。船を舫っていた太いロープが、ゆっくりと解かれていくのが見える。船が、港から離れていく。
 僕はケンジたちの方に向き直って、叫んだ。
「船が出ちゃうよ! いいのか? みんないいのかよ?」
 みんなは僕の方を見て、ふっと笑った。
「何を怖がっているの? あなたにもわかってたはずよ、船のことを」
「わかってたよ! わかってたよ、でも……」
 不安とおそれが僕の心臓を揺り動かす。波のざわめきがそれを無限に増幅する。
「みんな、いいのかよ! 箱につめたビー玉とか、ドッジボールとか、六面の筆箱とか、種から育てたヘチマとか、チャンバラで折れかけの三十センチ定規とか、リリアンとか、銀玉とか、ひざこぞうのかさぶたとか、ラジオ体操のハンコとか、そういうものを置いて行っちゃってもいいのかよ!!」
 誰も、何も言わなかった。僕はただひとり、甲板に立ちすくんでいた。
「もう、船は出ちゃったんだよ……」
 柴田が諭すように言った。船はいつの間にか海面を離れ、夜の闇へと上昇を続けていた。地上の光はどんどん遠くなり、やがて星空との境界もあやうくなる。もう戻ることはできない。


 下半身の妙な感覚に、僕ははっと目を覚ました。夢を見ていたような気がするが思い出せない。時計を見ると夜の三時だった。おそるおそるパンツの中に手を入れてみると、ねっとりとした液体が手にまとわりついてくる。前触れもなくつきつけられたその分泌物の感触に、僕は夜が明けるまでふるえていた。




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