そのいとおしいいきもの

 アパートのドアを乱暴に開け、倒れ込むようにして部屋に入る。もどかしく上着を脱いでそこいらに放り投げる。今までまとっていた「わたし」の皮が、部屋の湿気った片隅に積み重なっていく。つまらない仕事に捧げたつまらない時間が終わり、これからやっと自分の一日がはじまるのだ。わたしはできるだけ無雑作に床に寝転がって、しばらくぼんやりと天井をながめている。
 やがて、どこかに身を隠していたあいつがひょこりと顔を出してくる。わたしの帰りを待ち受けていたのだ。そろそろとこちらへ近づいてくる、その気配をしばらく楽しむ。タイミングを見計らってがばりと体を起こすと、それはびくりとして立ち止まる。恐れと不安と、媚びた笑いの入り交じった顔。わたしはその表情が大好きだ。びくびくと肩をふるわせながら上目遣いでこちらを見るそれに、わたしはとろけるような笑顔をつくってみせる。それからキッチンへ行き、皿に缶詰のキャットフードを盛ってそれの前に差し出す。それはほっとしたような表情をして皿の方へ早足で近寄っていく。わたしの方を二、三度うかがってから、顔をうずめるようにしてキャットフードをむさぼりだす。
 わたしはにこやかにその姿をながめた後、そいつの頭を掴んでぐいと皿におしつけてみる。それは突然のできごとにぴいぴいと鳴きながら手足をばたつかせる。肉のペーストがそこらじゅうに飛び散る。わたしは手にすこしずつ力を入れていく。指は粘土のようにずぶずぶと入っていく。必死でもがくさまが手に伝わってきて、とても心地がよい。

 それが本当のところ何であるのか、わたしにはよくわからない。もしかするとこれは学者が見たら狂喜するような新種の動物なのかもしれないし、あるいは本当はわたしたちが目にしてはいけない異形のものなのかもしれない。だが、とりあえずわたしにはこのいきものの正体には興味がなかった。
 それはある日気がつくとわたしの部屋にいた。子猫くらいの大きさのそれは、しかしわたしの知っているどんな動物とも違っていた。まばらに毛の生えたひょろ長い手足。大きくてじゃがいものようにいびつな頭。それは毛をむしられた猿か……いや、むしろ人に似ていた。それはちゃんと二本足で歩くし、わたしの方を見てにやにや笑いさえしたのだ。
 そう、その笑い。わたしのこの奇妙ないきものへの戸惑いと警戒を吹き飛ばし、部屋でずっと飼おうとまで決心させたのはなんといってもその笑い顔だった。こみあげてくる笑いではなく、つくる表情を他に持たない者の笑い。弱者の笑い。追従の笑い。卑屈な笑い。凡庸な笑い。
 そんな笑いをうかべて、それはよろよろとわたしにすりよってきた。空腹なのだ、ということはすぐに知れた。わたしはキッチンからベーコンだのパンのかけらだのミルクだのといったものをひっぱり出して、それに与えた。それはすこし躊躇した後わたしにぺこぺことへたくそなおじぎ――わたしにはそう見えた――をして、皿の上のものをむさぼり始めた。わたしは前から「ものを食べる」という行為は基本的に排泄と同じように汚らしくて忌むべきものだと思っていたが、この姿を見てそれは確信的となった。そして他人のそういうぶざまな様子を観察するのはまんざらでもない、ということも。
 しばらくそのいきものを眺めているうち、ふといたずら心がわいてきた。わたしはテーブルの上のソースを取って、無心に食らい続けるそれの頭の上から皿にとろとろと流し入れた。最初はわたしの親切だとでも思ったのか、それは顔をあげてにっこりと笑った。わたしは微笑を返して皿にソースを注ぎ続ける。皿の上のものがどんどん真っ黒になってゆき、それを食べるうちにそいつは咳き込みだした。もういいです、もうけっこうですというような顔を必死でつくるのを見ながら、わたしはソースを全部あけた。そのいきものはよほど腹が減っていたのだろう、未練がましく皿のものを無理やり口に入れ続けたが、ついにまだ半分以上残っている皿の上に今胃に入れたものをすべて吐いた。
 その時の、そのいきものの顔といったら。血の気が失せ、苦痛に歪み、いまにも泣きじゃくりそうで、しかしそれは笑っていた。こいつは知っているのだ。わたしに憎しみの表情をつくることが許されないのだということを。

 そんなわけで、わたしとそのいきものとの生活ははじまった。「外」で嫌なことや腹の立つことがあった日は、それを蹴ったり放り投げたり針を刺したりして気を紛らわす。
 だが何よりわたしが好きなのは、手でそれの頭をぐいと握りしめてやることだ。そのいきものの頭蓋骨は――おそらく生まれたばかりの赤ん坊がそうであるように――やわらかくてもろくて、だから握りしめればそのように変形する。これはそのいきものにとっても非常な苦痛らしく、わたしが頭をしめつけるといつもじたばたして泣きわめいた。きっとわたしの握力でも、その頭をぐちゃりと握り潰してしまうには充分だろう。もうすこし、もうすこしだけ力を加えれば。
 わたしは妹に娘が生まれた時、その小さな姪の手をさわりながら感じたことを思い出した。もうすこし力を加えれば、わたしはこの子のちいさな手を握り潰すこともできる。もちろんそんなことを実際にしたら大変なことになるのはわかりきったことだが、その「やっちゃいけないけどやろうと思えば潰せる」という感触がわたしを狂おしいまでに魅了した。そしてそれが、今わたしの手のうちにあるこのちいさな子供をいっそういとおしく感じさせたのだ。
 わたしはそのいきものの頭を両手でくちゃくちゃと握りながら、そんな快感にひたっていた。もうすこし、ほんのもう少しだけ力を加えてこの頭を一気に潰してしまったら、きっとその快感は絶頂を迎えるだろう。それをしてしまったらすべてが終わってしまうことはわかっている。もうとりかえしがつかない。
 でも、とりかえしがつかないことをするのは、どんなにか気持ちのいいことだろう。

 前に一度、こんなことがあった。
 いつものように家に帰り、服を着替えてソファに沈み込む。ぼんやりと弛緩しながらわたしはそのいきものが出てくるのを待った。だが、その日はいくら経ってもそのいきものはやってこない。もちろんそれは毎日毎晩姿をあらわすというわけではないのだが、少なくともわたしが待っている時にはかならず出てくるのだ。わたしはしばらくじっとしていたが、そのうちどうしようもなくいらいらしてきて部屋の隅を探し回った。
 わたしが自分からそのいきものを探してうろつき回るということにはすこし屈辱を感じたが、それでもそうせずにはおれなかった。そのいきものがひそんでいそうな場所を、わたしはくまなく探した。冷蔵庫の裏、家具のすきま、ベッドの下、押し入れ、ベランダ……いた。
 それはベランダの隅にうずくまっていた。血だらけだ。無数の掻き傷は、たぶん野良猫にやられたものだろう。息を飲んで様子を見ているとそれはぴくん、と一度体を痙攣させた。生きている。
 わたしはあわててタオルを出してそれの体を包み、部屋の中に引き入れた。さらに数枚のタオルでベッドをつくり、そっと寝かせる。救急箱を引っ張り出してきて、おぼつかない手で傷を消毒する。もしこのいきものが死んだら。たぶん、わたしも生きてはいけないだろう。そのことにわたしは、ずっと前から気づいていた。かけがえのない、いとおしいわたしの一部。
 血は止まったようだが、そのいきものはぜいぜいと苦しそうな息をもらしていた。頭に手を当てると、ものすごい熱があった。わたしはうろたえたが、とりあえず頭痛薬を細かくくだいてミルクに溶かして与えた。そうすると少しは落ち着いたようだった。
 それから三日間、わたしは会社を休んでそのいきものを看病した。会社からの電話には風邪だと言っておいた。
 何度か危険な状態になったこともあったがやがてそれは意識を取り戻し、目を開いて例の弱々しい笑いを浮かべるようにさえなった。そして四日目の夜、ついにそのいきものは自力で立ち上がった。それはよろよろとわたしの前まで歩いてきて、驚いたことにわたしの足にすりよってきた。わたしはたまらなくなって、そのいきものを両手でかかえあげて抱きしめた。その時わたしは泣いていた。よかった。おまえを失わずにすんで。そのいきものも最初はわたしの反応に戸惑ったようだったが、すぐにまた笑って――その笑いはあるいはそれがはじめて見せた種類のものだったかもしれない――わたしの抱擁に身をまかせた。
 ああ、このいとおしいいきもの。おまえといる時だけわたしはわたしでいられる。わたしはわたしより強いものたちからわたし自身を護るために、いつもわたしを切り売りしてきた。わたしを小出しにし、わたしを隠し、わたしをあざむいて「外」に対抗してきた。だがおまえに対してはそうする必要がない。おまえはわたしよりも弱いからだ。……いや、違う。ほんとうは違うのだ。わかっている。だけれどそれをはっきり言うことはまだわたしにはできない。
 おまえを抱くわたしの腕に力が入る。おまえは苦しくなってうめきだす。この声。この声は、本当ならばわたしが出さねばならないのだ。わたしはおまえが苦しむのを承知で、さらに腕に力を込める。骨がみしみしと言うのが、筋がぶつぶつと切れるのが伝わってくる。もうすこし力を入れたら。もうすこし力を入れたら。でもわたしはそれをしない。したい。できない。なんてここちよい時間。なんていとおしい圧迫。おまえのゆがんだ顔が苦痛でいっそうぐちゃぐちゃになる。その顔。そのみにくい顔。わたしの顔面に貼りつくべきその表情。
 いとおしいおまえ。おまえをわたしは離さない。一生をともに過ごし、一生おまえをいたぶり、一生おまえにわたしをうつす。いとおしいいきもの。おまえなしではわたしはわたしではいられない。

 そのいとおしいいきものは、今夜もわたしのそばにいる。




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