大学の掲示板の前で、僕は大きなため息をついた。せっかく一時間目から来たというのに、こんなときに限って休講になっている。次の講義までの約二時間をどうにかしてつぶさねばならないが、時間が早すぎてつぶす場所がない。もう一度ため息。
「何してんの、こんなとこでボーッとして」
知り合いが僕を見つけて声をかけてきた。サークルで知り合った女の子だが、僕とは学部が違う。彼女は奇特にも理学部物理学科であり、そして僕は奇特にも文学部哲学科である。僕が掲示板の休校通知を指差すと、彼女は声をあげて笑った。
「あっはっは、掲示板ぐらいマメにチェックしときなさい……で、この時間はどうすんのよ」
「……僕と学食で二時間ほどカントについて語り合わないか?」
カントという人が何をした人か、僕ももう忘れかけているのだが。
「あほ。あたしにはちゃんと毎週出てる講義があるの。……そうだ、キミもついて来なよ」
「それ、俺に死ねと言ってるのと同じですよ、物理の講義に来いなんて」
「眠けりゃ寝てればいいじゃん。人数も多いし、すみっちょに紛れ込んで寝てても絶対わかんないって」
「……物理の講義聞きながらじゃ眠れるもんも眠れんわい……」
「面白いのにぃ……今日なんか、ホログラムとか見せてくれるよ」
ホログラム
「立体映像?」
僕はその響きにすこしだけ魅かれはじめた。寝場所を確保できるということにも。
「そ。ホログラム。いま光学にちょこっと触れてんの」
「ふうん、ホログラムねえ……」
僕はちょっと考えて、言った。
「じゃ、学識を広めるために御邪魔しますか」
「……どうせ寝るくせに……」
砂漠。日は高く照りつけ、陰という陰を世界から一掃していた。彼はバイクを停め、それによりかかるようにして座り込んだ。水筒の水を大事そうにすすりながら、彼は自分がもうどのくらい走り続けているのかを考えようとした。だが、そんなことが無意味であることは彼にもよく解っているのだ。彼はいびつに笑って、水筒をリュックにしまいこんだ。
彼は、海を目指していた。
海というものがどんなものなのか、彼は知らない。遠い昔に話に聞いたことがあるだけだ。彼は海を見たことがなかった。少なくとも、彼はそう思っていた。
砂漠を渡っていけば、海にたどり着く。そう聞いたときから、彼の旅は始まったのだ。灼けつく昼と孤独な夜を、彼はいくつもくぐり抜けてきた。しかし、海はまだ見えない。
ときどき、彼は海というものがどんなものなのか思い描こうと試みることがある。人づてに聞いた知識の断片から海のイメージを組み立てるのは、生まれながらの盲がガラス細工を触覚から想像するのに似ていた。それは輪郭をなぞるだけで、最も大切な部分にはどうしても迫れない。彼は、いつもそう感じていた。
そしてそれが、彼を旅に駆り立てる力だった。
ルミは、夜の街が大好きだ。夜の街を歩けば、色とりどりのひかりが砂糖菓子のようにこの幼い少女を魅きつける。黒くすすけた大通りを漂うこれらのひかりを拾い集めてポケットにつめこむのが、ルミの楽しみだった。小一時間も歩いていると、ルミの上着のポケットはピンクやブルーやオレンジのネオンのひかりでいっぱいになる。ときどきポケットからあふれだしたひかりがルミの後ろで尾を引き、それがまたルミを楽しませる。
ひかりは、夜の闇の中でしか生きられない。だから、ルミはひかりが好きだ。夜の闇と街のひかりは、この少女にとってはまったく同じものだった。
ルミはふと歩みを止め、路地に腰を下ろす。そして昔聞いた胸の悪くなるような童話に出てくるあの少女、冬空にマッチをすって幻想にひたる貧しい少女をまねてポケットからひかりを取り出してみる。あの物語の少女とルミが決定的に違うところは、ルミはひかりの使い方を決して見誤りはしないということだ。ひかりは照らすためのものだ。何かを見なくてすむようにするためのものではない。
ルミがひかりを当てると、あらゆるものはその色に応じてさまざまに姿を変える。それらはそれぞれに違った姿を見せるが、本当はひとつのものだ。ひとつのもののある部分にひかりが当たり、その他の部分は陰になる。別のひかりを当てると別の部分が見えて、さっきまで見えていた部分は闇に溶け込んで見えなくなってしまう。ルミはポケットから次々とひかりを取り出して、それらを夜の闇の中に解き放っていく。世界はめまぐるしく形を変え、そのそれぞれがルミを楽しませる。
そうして、いつまでも過ごす。
「どちらへ?」
不意に人の声がして、彼ははっと我に返った。驚いて声のした方を向くと、少女がひとり笑みを浮かべて立っていた。絹でできているらしい真っ白な服を風になびかせている。
「……あ……」
彼は一瞬声が出せなかった。こんな砂漠の真ん中で人に出会うことがあるなどとは思わなかったし、事実この旅の間人に会ったことなど一度もなかったのだ。
「こんにちは。驚かせてしまったかしら?」
少女は人なつっこそうな微笑みのまま彼に近づいてきた。彼が彼女にかける言葉を選ぼうとして戸惑っているうちに、少女は「どちらへ?」と最初の質問を繰り返した。
「……海」
彼はやっとのことで言葉を発した。
「海へ、行くんだ」
彼はそう言って、遠くの地平線に目をやった。その視線を少女はなぞって、つぶやくように言った。
「遠い旅……」
ふたりの間の空気が、すとんと落ちた。沈黙が砂の上によどみを作った。
「空」
突然、少女は言った。
「空はどうかしら?」
少女は手をのばして空を示した。彼は彼女が何を言おうとしているのか解らなかったが、その手の動きにつられて空を見上げた。一瞬まぶしさに目がくらんで、そのすぐ後に真っ青な空が彼の眼前に迫ってきた。
「……まるで手が届きそうだ」
彼は、ほとんど無意識にそうつぶやいた。少女は何度目かの微笑みを見せて彼に言った。
「とどくわよ。あなたが手をのばせば」
彼の手は、自然に空へとのびていった。そして突然、はりつめたゴムがぷちんと切れるように彼は平衡を失った。ふらりと倒れそうになって足をふんばろうとした彼は、そのときはじめて足元から地面が消えていることに気づいた。驚いて下を見ると、彼のバイクがはるかに小さく見えた。空の上に浮かんでいるのだ。
「ほらね! とどいた!」
横に浮かんでいる少女が声をあげた。彼はおそるおそる辺りを見回していたが、やがて心地よい浮遊感にその身を任せた。
「ああ……なんていい気持ちなんだろう……」
彼はそうつぶやいた。少女は、まるで自分がほめられたかのようなうれしそうな表情を見せた。雲が足元をかすめ、風が頬をなでた。
だが、彼が続けてこう言ったとたん、少女の顔はさっと曇った。
「海も、こんな風に行けたらいいのにな……」
そのときの少女の顔はさみしげにも、怒っているようにも、哀れんでいるようにも見えた。そのどれでもないようにも思えたし、そのすべてであるようにも思えた。
少女はぽつりと、小さな声で言った。
「そうね……行けると、いいね……」
気がつくとふたりは、砂漠の上にいた。ふたりはしばらく黙っていたが、やがて彼が口を開いた。
「……じゃ、僕は行かなきゃ」
彼はリュックサックを背負い、バイクにまたがった。
「ありがとう、楽しかったよ!」
少女はただ手を小さく振って、彼を見送った。砂煙をあげてバイクが遠ざかり、やがて見えなくなった。少女はすこしの間ひとりそこに佇んでいたが、やがて彼の去った方に背を向けた。
波の音がざわめき、潮風が少女の髪を揺らした。
部屋にもっさりした風体の男が入ってきた。彼がこの物理の講座の教官であるらしい。教官はピンマイクを指で弾いて声が入るか確認し、学生ふたりがかりで運ばせた水槽のような箱を教壇の中央に据えた。
「え、おはようございます。今日は、光学の話を進める前にですね、ひとつの応用例というか、まあ余興として、お約束の通りホログラムを見ていただこうと、こういうわけです。……部屋暗くしたほうがいいかな、ちょっと、端っこの人、カーテン引いてください」
カーテンが引かれ、部屋が薄暗くなった。こういうのは、結構好きだ。
「これはですね、ホログラフィのアートを手掛けている人から……実は昔の教え子なんですが、その人から無理言って借りてきたもんなんです」
そう言いながら、教官はコンセントを差し込み、水槽の横のスイッチを入れた。
すると、水槽の中にふわりと光のかたまりのようなものが浮かんだ。はじめ、僕はそれが何なのか解らなかった。だが目をこらすと、それが人の全身像であることがはっきりしてきた。少女。白い服の少女が、佇んでいる。それはいかにもはかなげな像をガラスの中の空中に結んでいた。
「ほら、こうすると立体像であることがよく解るでしょ」
教官は、水槽の向きを左右に変えてみせた。水槽の下にはターンテーブルのような機構がついている。水槽の向きが変わると、少女の像も横を向いた。解像度はそう高くないのに、僕には少女の物憂い表情が見て取れた。
「ま、これは原理的には光の干渉を利用したものでして、被写体となる像に当てて反射した光に、当てる前の光を混ぜてやってその干渉縞を感光板に記録するわけです。で、その混ぜてやった方の光を感光板にもう一度当ててやれば、光の波動の引き算で被写体から来た光がそのまま取り出せる、とこういうわけです」
僕はずっとホログラムの少女にみとれていた。どこかで会ったことのあるような、そんな気もした。隣で知り合いの女の子が「あんなの、部屋にひとつ欲しいわね」と小声で言った。僕が生返事しか返さずホログラムにのめり込んでいるのを見て、彼女は笑った。
「え、このホログラフィには他の写真術とは根本的に異なった点がありまして、何かと言うとですね、ここにホログラムの画像を記録した感光板がありますが……これはこうして見ただけでは絵なんか何にも見えませんね。顕微鏡なんかで見ても細かい虹みたいな干渉縞が見えるだけです。普通の写真なんかだと、被写体のある一点とフィルムに焼きつけられた像の一点がきちんと一対一で対応しているわけですが、これは違う。被写体の全体像はこの干渉縞に“織り込まれている”んです。それはこうやって感光板をじっと眺めてるだけじゃ見えてこないわけで、さっきも言ったように感光時に混ぜてやった光をもう一度当ててやらなければいけない。それによって、はじめて像が再生されるんです。
“織り込まれている”という表現を使いましたが、それはこの感光板のどの一点、どの部分にも被写体の全体の情報が内包されているということです。だから例えば、この感光板を細かく切っちゃって……そんなことしたら作者に怒られてしまいますが……そうしてそれに光を当てても、ちゃんと全体を再生することができます。ま、解像度は落ちますがね。部分の中に全体がある、そういうわけです。あるいは、この干渉縞のすべての部分に滲み透っているひとつの秩序とでも言うべきものがあって、像として見えるものは光を当てることによって切り取られたその断片に過ぎない、そういうことも言えるかもしれません」
ある夜、彼は街を見つけた。食料と水を調達して、宿をとろう。彼は街の中へと入っていった。
街の中は、毒々しいほどきらびやかなネオンであふれていた。ショーウインドウには原色の品々が並び、さまざまな音楽が交じり合って流れていた。しかしその割に、不思議なほど人通りはない。
バイクを引いて歩道をしばらく歩いたが、宿のようなものを見つけることはできなかった。なおも探していると、彼はふと前の方に子供がひとりいるのを見つけた。あの子に聞いたら解るだろうか。彼はその子供の方へ近づいていった。
「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど……」
その子は無愛想な表情をこちらに向けた。十歳くらいの女の子だった。上着のポケットがいっぱいにふくらんでいるが、何が入っているのかは彼には解らなかった。
「何?」
「この街に泊れるところはないかな……」
「ここから三つ目の筋を入ったところ」
女の子のあまりにつっけんどんな答え方に唖然としていると、彼女はまだ何か用があるのかとでも言いたげな顔で彼を見た。
「……あ、どうもありがとう……」
彼は気を取り直して、言われた方へと歩き出した。女の子はもうこちらを見もしなかった。
三つ目の筋にたどり着いたとき、彼はもう一度女の子の方を振り返った。女の子は例のポケットから何やら出して、それをもてあそんでいた。それは燐光のように淡く輝き、彼女の廻りでゆらいでいた。彼には女の子の仕草が、何かの儀式のように見えた。
彼がしばらく見つめていると、女の子はそれに気づいてはたと手を止めた。
「何?お兄ちゃん」
彼はぎくりとして、言った。
「いや……きれいだな、と思って……」
女の子は、すこし得意げな笑みをつくった。そして、自分から彼の方へ近づいて行った。
「お兄ちゃん、どこから来たの?」
「え?……そうだな、遠いところさ。ずっとずっと遠いところ」
「ふうん……そんな遠いところから、何しに?」
「……海を探してるんだ」
「海?」
女の子は一瞬怪訝そうな顔をしたかと思うと、すぐにぷっと吹き出した。
「探してるの? 海を? いっしょうけんめい、ずっと?……ばかみたい!」
彼はその言葉にカッとなって、怒り出した。
「ばかだって? 何でだよ!」
女の子は彼の怒鳴り声にうろたえも悪びれもせず、平然と言った。
「だってそうじゃない。無駄だもの」
「無駄……?」
彼女の言葉は、彼に怒りとはまったく別の感情を引き起こした。
「無駄? 無駄だって? なぜだ? 言えよ!……なぜ……」
「情けない声出さないでよね、みっともない」
女の子は彼からすこし距離を置いて、言った。
「お兄ちゃんは、自分のいるところとは全然違う、ずっと遠いところに海があると思って、だからそうやって探してるんでしょ?」
「そうさ……当然じゃないか」
いぶかしげに見る彼に構わず、女の子は続けた。
「それじゃ、どこへ行ってもどこを探しても、お兄ちゃんは海には近づけないじゃない。海はいつも自分から遠く離れたところにあるんだから」
そんな屁理屈を、と叫ぼうとして彼はできなかった。彼の心の中に、いつか砂漠で会った少女の別れ際に見せた表情が突然よみがえった。
「でも……じゃあどうすればいいってんだ? どこへ行けば、海にたどり着くんだ」
彼の心を支配していたのはいらだちと、そして怖れだった。自分の旅は本当に無駄だったのかもしれない、という怖れ。なぜならそれは、実は彼自身が旅の間ずっとどこかで感じていたものだったのだから。
彼はその場にしゃがみ込んでしまった。その時、声が聞こえた。
「見えない部分にひかりを当てて。見えてる部分だけに惑わされないで」
彼は、その台詞が目の前の女の子の口から出たものか、それとも彼の頭の中で砂漠の少女が言ったものかはっきりとは解らなかった。
「光……?」
女の子が、彼の目の前に手を突き出した。握りしめた指をゆっくりと開くと、中から青白い光があふれだした。光が薄暗い街をほのかに照らし、今まで見えていた街並がまるで陰のように消え去る。そして、まったく違う風景が彼の眼前に現れた。
それは、海だった。
波が彼の足元ではじける。潮騒があたりを包み込む。彼が波打ち際まで行こうと足を出すと、浜辺の砂がさくりと音を立てた。
彼はしばらく声を出せなかった。それは彼が思い描いていた姿そのままで、しかもまったく違っていた。これが、長い間探し続けて見つけることのできなかったものだ。
彼は波をその手で触れてみようと前へ進み出た。その時だった。廻りの景色がくらりとゆらいだかと思うと、突然暗転したのだ。彼が驚いてあたりを見回すと、すでにそこは夜の街に戻っていた。女の子が、青い光をポケットにしまいこんだからだ。
「ちょっと……なんで消しちゃうんだ」
「これは、あたしのひかりよ」
女の子は言った。
「欲しいんだったら、自分で見つけなよ」
「自分の、光を……?」
「そう、自分の」
彼は初めて自分の探すべきものに気づいた。そしてそれが、彼の新しい旅の始まりだった。だがそれは今までの旅とは違う。なぜなら、今度は必ず見つかるということが彼には解っているからだ。
「ちょっと、起きなさいよ。授業終わったわよ」
「はにゃ?」
肩を揺さぶられて、僕は眠りから覚めた。結局寝てしまったらしい。
「“はにゃ”じゃないわよ。まったく器用よね。余興のホログラムだけはちゃんと見て、本番の講義が始まったらスッと寝ちゃうんだから」
彼女の言うことに「ふああ」とか「ほえ」とか主にハ行で返事をしながら、僕は脳みそが回転を再開するのを待った。かなり深く眠り込んだらしい。何か夢を見たような気もする。
「キミ、次授業でしょ。早く目ぇ覚ましてとっとと教室出なさい」
僕は、その夢がどんな内容だったかを思い出そうとした。だが、それはできなかった。
「俺、何か夢見てたみたい……」
「夢?どんな」
「……忘れた……」
彼女は依然ボーッとしている僕を無理やり引きずって教室を出た。廊下をふらふらと歩いているうちに、二時間目の始業のベルが鳴った。
「あ」
「何よ」
「夢のこと。ひとつだけ思い出した」
「妙に黙ってると思ってたら、まだそんなこと考えてたの?」
「……あのホログラムの女の子が出てきた。……ような気がする」
彼女は両手で僕の頬を軽くパンパンと叩いて、自分の次の教室へと消えていった。そして僕は教室にたどり着くまでの間、その夢のことをしつこく考え続けていた。