鏡の部屋

 もうだめだな、ということがどちらともなくわかりはじめて、それでもいっしょに過ごす日曜日。わたしたちがたどりついたのは郊外のちいさな遊園地。よりにもよって、ふたりではじめて待ち合わせた場所だ。
 しばらく会話がなくて、たまらなくて、わたしは逃げるように飲み物を買いに行った。のろのろと自動販売機の前に立ち、のろのろと硬貨を入れる。わたしの好きな冷たいコーヒーと、彼の好きな熱いミルクティを買う。
 戻ったら、彼はうずくまって道端の花壇をいじっていた。それは、なにかを探してるようにも見えた。
「なにしてるの?」
「ううん、なにも」
 彼はいつもの柔和な笑顔を見せてそう言った。そうしてまた沈黙が続いた。
 でも、それを破ったのは意外にも彼だった。
「ねえ、なんか入ろうか」
 わたしはあわてて受け答えする。
「う、うん、そうね。なにがいい?」
「あのさ、あれはどう? 前に来たときはいやがってたけど」
 そう言って彼が指し示したのは、鏡の部屋。たくさんの鏡で埋めつくされた、一種のおばけやしきだ。
「ん……あれはちょっと、やだな……」
 そうだ。はじめてここに来たときも、わたしはこの鏡の部屋に入るのをかたくなに拒んだのだ。それは、彼とふたりでいる自分を見るのがなんだか照れくさかったから。
 でも、今この部屋に入りたくないのには別の意味がある。
「そんなこと言わないで。おれ、いっぺん入りたかったんだ」
 彼は、めずらしく強引にわたしの手を引いた。わたしはすこし抵抗したが、拒絶する理由を説明するのも面倒なのでしかたなく彼についていった。
 他に入る人もいないこの薄暗い部屋を、ふたりはそろそろと歩いていく。両側の壁はすべて鏡。ゆがんだり引き伸ばされたりちぢんだり、さまざまな像を無限に連鎖させてゆくなめらかな平面。
 わたしはすこしこわくなって彼の手を取ろうとした。でも、指を伸ばす自分の姿を鏡に見てすぐに思いとどまった。
「あはは、ヘンだよね、こりゃブキミ」
 ムンクの絵のようにぐにゃぐにゃと変形した自分を指して、彼は笑った。わたしも口許を引き上げてみせる。それが笑い顔になっていないことは、鏡が彼の肩越しに教えてくれていた。
 鏡の迷路は、外から建物を見ていたときには思いもよらなかったほど長かった。歩いているあいだ、わたしはまわりの壁を視界からはずすのに必死だった。……そう、だからいやだったのだ。わたしは、わたしを見たくなかったのだ。彼といるわたしを見たくなかったのだ。
 でもそのためには、わたしは前を歩く彼の背中をじっと見つめているしかなかった。
 と、急にその背中が止まった。わたしは勢いあまって、彼にぶつかってしまった。わたしが「ごめん」と言おうとしたとき、彼は口を開いた。
「ねえ……」
 彼の表情はまわりの鏡を通してもうかがい知ることができなかった。
「なに……?」
 わたしは「ああ、いよいよだ」と思った。
 彼と出会ったとき、わたしはよく言われるような「赤い糸」だの「運命の導き」だのというものを感じたわけではなかった。ただ、彼の見せるふわりとした淡い笑みに、わたしはふしぎな安心感を得たのだった。そのつかみどころのない安穏こそが、そのときのわたしにはいちばん必要なもののように思えたのだ。
 彼はそのころからちっとも変わっていない。わたしも、あのころ感じた彼へのいとおしさを失ったのではけっしてない。ただ……ただ、どこかでなにかの手順を間違ったのだ。それはたとえば、あの日のデートで右足から歩きはじめていたらとか、あの日の食事の最後にコーヒーでなく紅茶を飲んでいたらとか、そんなちょっとした間違いだ。
 わたしは頭が悪いから、それをうまく説明できない。だから、きょう彼に言ってほしいと思っていた。彼から終わりを告げてほしいと思っていた。
 でも、彼はなにも言わなかった。かわりに彼はポケットをまさぐって、その中のものを壁の鏡にぽいと放り投げた。
 ぱあん、という大きな鋭い音がして、鏡は割れた。彼が投げたのは、入る前に彼が拾ったらしい小石だった。そうか、花壇で探していたのはこれだったのだ。
「なにするの!」
 わたしはわけもわからず、つい叫んだ。彼は依然としていつもの……そう、いつもとまるで変わらない柔和な、でも奥の見えない井戸のような微笑みを浮かべていた。
「……これを見て」
 壁の鏡には細かいひびが入り、その亀裂のひとつひとつが彼の像をむすんでいた。その像は鏡の最初からのゆがみも手伝って、すべて本来の彼とすこしずつ違ったものになっていた。ひょろ長い彼、ずん胴の彼、いびつな彼……。
 そんな百人の彼が、いっせいにわたしにたずねた。
「このなかに、あなたのすきなひとはいる?」
 わたしはしばらく口がきけなくて、ことばを発しようと苦しんで、でもできないから、結局頭を左右に振って答えのかわりにするしかなかった。
「そうか……」
 後ろの方でだれかが――たぶん遊園地の従業員だろう――騒いでる声が聞こえた。ガラスの割れる音を聞きつけたのだろう。そんな中で彼は、あの微笑みをすこしもくずさずにわたしに言った。
「じゃあ、出ようか」
 それが、彼との最後だった。あれ以来彼からの連絡はない。そしてわたしはといえば、あのときの百人の中、本来の彼よりすこしだけゆがんだ像を見て、それを好きになってしまった自分にうんざりしている。




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