死の観察日記



「告知」


 母が食道がんだと知れたのは、昨年の秋のことだった。「食べものがのどに引っ掛かる」と言い出した母は、ぼくの病院へ行けという再三の指示を聞き流し、その後食べたものを吐きもどすようになってやっと医者に診てもらうこととなった。そのときにはすでに食道の腫瘍は大きくなっており、肩のリンパ腺にもがんが見られるようになっていた。
 問題は、母のこの病状を本人にどう説明するかだった。つまり、がんを告知するかどうかということだ。
 ぼくも母も、がんは本人に告知するべきだという考えの持ち主だった。自分ががんになったら絶対に教えてくれ、母はそうも言っていた。だがその時になって、ぼくはどうしても母に告知する決断ができなかった。母は外面的には強いように見えて、実は非常に弱い人間である。しかも二年前に夫----つまりぼくの父----をなくし、精神的にあまりよい状態とは言えなかった。告知すれば母はどうなるのか、彼女自身が理想としていたように、がんである事実を受け止めて残りの人生を強く生きることがはたしてほんとうにできるのだろうか、それが確信できなかった。
 結局ぼくは医者と相談して、「がんではないが放っておくとあぶない腫瘍がある」という実に玉虫色のシナリオを用意することにした。
 だが、そんな細工はまったく無意味だった。母は、自分の病状を正確に把握していたのだ。
 母はすこし泣いたあと、「でもまあ、なったものは仕方ないなあ」と笑った。そして、「せいぜいがんばってみるわ」と明るく言った。
 それからしばらくして、母の言動はすこしずつおかしくなっていった。

 ぼくは今でも、がんは告知するのが原則だと思っている。だが、原則は原則でしかない。実際にその状況に立たされたとき、「原則」というものがどれほどの力を持つのか。
 たとえば今、脳死による臓器移植の是非が論議されている。ぼくははやく死者の臓器が病に苦しむ人の役に立つようになればいいと思っている人間のひとりだが、実際に自分に近しい人が脳死状態になったとして、はたしてぼくはその原則論を通せるだろうか。
 人の生死の問題には「正しい道」はないのだろうか。いや、もしあったとしても、その道をためらわずに行くことができる人間などそう多くはいないだろう。それでいい、とは言わないが、たとえその道を外れたとして、だれがそれを咎められるだろう。
 死という不条理に立たされたとき、人はいくらでも非論理的になることができるのだ。


「Q.O.D.【死の価値】」


 母ががんとわかったとき、その治療法について医者と話し合った。
 食道のがんはかなり進んでいて、定石なら手術が必要である。しかし手術をすると母は声帯を(つまり声を)失うことになる。そのうえ声と引き換えにしたとしても、がんは両肩のリンパ腺にも存在するので、手術で完治というわけにはいかない。
 第二の選択は放射線治療で、これにより腫瘍を小さくすることはできる。ただし、もちろんこれでも完治することは考えにくい。
 母は自身ががんであるということは(結果的に)知っていたが、その進行状況については結局教えられなかった。ぼくが知らさなかったのだ。それが最善であると信じたからだが、あるいはそれは単にぼく自身が傷つかないためだけなのかもしれなかった。
 結局、母は約二ヶ月にわたって放射線治療を受けた。それでがんが完治すると母が思っていたかどうかはわからない。母の言動からすると、たぶんこれが気休めに過ぎないことはわかっていたと思う。それでも母は治療を根気よく続けた。
 放射線を照射するのがもうこれ以上は限界だ、という時期に来て、また病院からの説明があった。今後の治療について、抗がん剤を使用するかどうかということだ。
 この点については、はっきりと母に問うた。放射線でも完全には治らなかった。抗がん剤を使えばもうすこし改善するかもしれない。でも効果より、副作用のほうが大きい可能性もある。おかあさん、どうする?
 ひどい質問だと思った。どうにかして当たりのやわらかいことばを選ぼうと思ったが、ぼくには思うようにできなかった。自分の職業はライターであるはずなのに、ことばを操ることがこの時はまるで不能だった。
 母は不器用なぼくの問いに、意外なほどすんなりと答えた。「抗がん剤はいやだ。それにこれからも、延命治療はいっさいやらないでくれ」
 母がこんなに明確な答えを用意していたというのも驚きだったが、「延命」ということばが母の口から出てきたのにぼくは打ちのめされた。母はこのときもう「死に方」を考えていたのだ。
 母をしてそのような決断をさせたのは、母がつねに目指してきた(そして息子であるぼくにもそうあれと教えた)「合理的で論理的な思考」であった。実は母の中にはそれとは相反する非論理的で情緒的な部分があって、やがてその部分が母の精神をすこしばかり狂わせることになる。だが、このとき「延命はしてくれるな」と言った母のことばが、母の真実の思いだとぼくは考えることにした。
 だから病が進んで母の呼吸が危うくなり、医者から人工呼吸器の装着の可能性を示唆されたときも、人工呼吸器はつけないでくれという判断をぼくはした。そしてそのすこしあと、母はほとんど外的な延命処置をほどこされないまま急変して(「急変する」ことこそが「自然」なわけだが)死亡した。

 「生の質(Q.O.L. = Quality Of Life)」というものが、最近よく言われるようになった。より長く生きる、より長く生かすことが生命にとって重要だとされた「量的な生」の考え方から、その内容を吟味することに視点が変わってきたのだろう。
 生の「質」をはかることは、「どれだけ長く生きたか」を計るよりずっと難しい。だがぼくは、その鍵を握るのは「死の価値」、つまり"Quality Of Death"なのだと思う。
 生を見つめるにあたって「死ぬこと」にこそ一種の価値を見いだす……あるいは「死」にその基準を求めずにはいられない、そういうことも、人にはあるのだ。とてもつらいことだけれど、「生きること」が「死ぬこと」の一部であるかぎり。



「ハヤクシネ」


 病気が進んでくると母は日々を苦しみの中で過ごし、さもなければその苦しみを避けるため薬で眠りつづける。そんな母の傍らにずっといると、やがて頭が逃避の道を探りはじめる。
 このつらい時が終わったら、今までできなかった楽しいことをいっぱいしよう。買い物に出かけて散財し、映画をたくさん観て、好きな水族館にも行きたい。日本のあちこちを旅するのもいい。いや、どうせなら海外旅行だ。タイ、ネパール、オーストラリア、ドイツ、韓国、行きたいと思っていた場所はたくさんある。あと、前から興味のあったスキューバダイビングにも挑戦したい。乗るのを母にずっと反対されていた車も買いたいし(なぜかというと、ぼくが大酒飲みだということを母はよく知っていたからだ)、このさいバイクの免許も取りたい。
 重いストレスの続く看病生活にあって、これらの想像はとても甘美な夢としてぼくを魅了する。しかしそれは、あるひとつのことを前提としてしか成り立ち得ないものなのだ。
 そうしてぼくは、自分の心のいちばん深い部分がなにを望んでいるかを見いだす。

「ハヤク死ネバイイノニ」

 そのことに、ぼくは慄然とする。しかし、ぼくがそう考えているのはまぎれもない事実だった。「こんなに苦しんでいるのなら、早く楽になった方が母も幸せだ。母自身もそう思っているに違いない」……そういう「補足」を自分の考えにくっつけてみたりもする。だが、そんなのは結局ぼくの脳が考え出したレトリックに過ぎないんじゃないのか。ぼくは母の気持ちなんか考えちゃいない。どんなに苦しんでいるように見えても、母自身が死を望んでいるかどうかなんて他人には(そう、このことに関しては息子のぼくも他人でしかない)わかりっこないじゃないか。ぼくは、自分の心の安寧のためだけに母の早い死を望んでいるのだ。
 ぼくはこんなことすら考えていた。母が死ねば母の貯金と保険でいくばくかの金が入ってくる。それをどう相続して、どう運用すれば得だろうか。または、その金でどんな買い物ができるだろうか。
 モルヒネで眠る母を目の前にして、ぼくは確かにそういう計算をしていたのだ。



「看取る」


 二年半ほど前に父が死んだとき、ぼくはそのそばにいなかった。東京で働いていたぼくが危篤の知らせを受けて京都の実家に戻ると、そこには疲弊しきった母だけがいた。
 だから母の最期はこの目で見届けたい、そうぼくは思った。いや、見届けなければいけないという強迫観念があったのかもしれない。母の容態が悪化してからぼくは一日の半分強を病室で過ごし、残りの半分は電話の音にびくびくしながら過ごした。そしてさらに危うくなると、二十四時間泊まり込みの体制を作った。
 そうして、ぼくは母の死の瞬間に立ち会うことができた。
 母の傍らで本を読んでいると呼吸が苦しそうになったので、いつものように看護婦を呼んで喉にたまった痰を吸引してもらった。ぼくはそのようすを、本を読みながら眺めていた。すると突然バイタルが下がり、看護婦の動きが慌ただしくなった。担当医が呼ばれる。わけもわからないまま手を握って母の名を五回ほど叫んだら、その手が急に重たく冷えていった。ほんとうに、冗談みたいに、母は冷たくなった。その間、今から思えばたぶん五分も経っていなかったのだと思う。
 ぼくは自分の望みを果たした。ぼくはこれから母について語るとき、胸を張って「母の死を看取った」と言えるわけだ。だが、意識もさだかでない母のそばに付き添って、その死の瞬間そばにいたからといって、それが母にとってどんな意味をもつというのか?
 いっぽうぼくは、おそらくこれからもずっとあの情景を夢に見続けるに違いない。母の肉がモノへと変わっていく、あのプロセスを。
 親の死に目になんて、好きこのんで遭うものじゃない。



「いつかぼくらもそこへゆく」


 母の死の瞬間にも、そして葬儀のときにも、ぼくはあまり泣かなかった。傍目からみればよっぽど冷ややかな、感情のない人間に見えたと思う。でもぼくは、むしろ自分が母の死の後に少しでも泣いたことの方に驚いていた。
 なぜなら、母が死ぬずっと以前に、もう涙は枯れているはずだったからだ。
 母が死んだということ自体は、実はぼくにとってそれほど悲しいことではなかった。ほんとうにつらかったのは病に伏している間だった。そのとき母は生きていたが、それはつまり「少しずつ死に続けていた」ということだ。臨終はその「連続的な死」の最後の一点に如かず、あるいはそれは死の苦しみが終わるという「喜ばしい」一瞬ですらあるのかもしれなかった。

 身内や知人の葬儀に立ち会うたび、ぼくはいつも「なぜ自分はもっと悲しめないのだろう」と悩んでいた。それが大事な人の不幸であるほど、無感動な自分を発見して実は自分はとても薄情な人間なのではないかという思いに苛まれる。
 だが結局、人の死で悲しむのはあまり重要なことではないのだ。思いを馳せるべきは死者が最後の瞬間まで過ごした「生」であり、死者にもしかすると与えられていたかもしれなかったはずの「生」であり、そして残された者たちが歩いていかなくてはならない「生」である。そのすべてを考えようとするならば、死を悲しんでいる暇はない。
 なに、死を考えなければいけなくなる時は自ずとやってくる。いつか遠からぬ将来、誰もが自分自身の死に遭遇するのだから。




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