ぼくはまだ固まりきらない、ふわふわのアメーバだった。はるか上からそそぐかすかな光と、おだやかにゆれる波とがぼくのすきとおったからだをここちよくゆさぶっている。
海の底では三葉虫やアンモナイトたちが、すでに形を与えられたことを誇るかのようにゆったりと移動していた。大きな殻を背負って海をゆくかれらの姿は、どこか古い寺院の石のレリーフを思わせた。ぼくは自分もいつかあんなふうに進化したいなあとあこがれながら、ゆらりゆらりとその上をただよっていく。
その夢があんまり素敵だったので、ぼくは夜明けに目を覚ましてからもずっとアンモナイトのことを考えていた。いまはもういないあの生き物が、なにか無性にいとおしくてたまらなくなった。
何かの本で読んだことがある。人々が見た夢は目覚めとともにそれぞれの家の窓から抜け出て、アスファルト道路の漆黒の中に沈む。やがて日が昇り、人々がそれぞれの持ち場へと赴くころ、アスファルトはその夜の夢々を呑み込んだまま硬化する。そうして夢は次の夜またアスファルトがゆるみ出すときまで地下で眠り、その間人々は夢のことを忘れ去る。
だから明けきらない朝、まだアスファルトが固まらないうちに外へ出れば、ぼくらはゆうべの夢を掘り出すことができるのだ。いまならまだ間に合う。さあ、アンモナイトを掘りにいこう。
まだ固まっていないアスファルト道路を歩くのはひと苦労だ。細く引かれた白線の上を踏み外さずに歩かなくちゃならない。さもなければたちまちアスファルトのねばる闇に足を取られて沈んでしまう。夢の化石の仲間になりたくなければ、一歩一歩注意して白線をたどっていくことだ。
ちいさなスコップの入ったリュックをカラカラ言わせて、もう十五分も歩いただろうか。見えてきたのは大通りの交差点。昼間には車や人がひしめくこの場所も、いまはなにもない静かなタールの沼だ。ぼくは横断歩道のしましまを慎重に飛び渡って、できるだけ交差点の真ん中に近づいた。
ぼくはそろりと下をのぞきこむ。それはちょっとした見ものだった。いろんな人のいろんな夢が、まるで釣り堀の魚のようにごった返している。小さな花、古びた家、犬、ごちそう、おばあちゃん……みんなこの夜の夢にあらわれ、そして朝とともに捨てられていくものたちだ。
ぼくはさっそくスコップを取り出して発掘作業にとりかかることにした。アスファルトにスコップの歯を立てると、それはずぶりと中に入っていく。ちょうどコーヒーゼリーをスプーンですくいとるような感触だ。ぼくは面白くなって、どんどんアスファルトを掘っていった。途中いろいろなものが出てくるがぼくはそれらには目もくれない。ぼくがさがしてるのはただひとつ、夢に出てきたあのアンモナイトだけだ。
そうやってぼくはしばらく夢中で地面を掘り続けた。だが、ふと手を休めたぼくは自分のすぐ向かい側の横断歩道で同じようにアスファルトを掘っている男がいるのに気づいた。四十くらいのおじさんだ。おじさんはぼくの視線を感じたのか一瞬こちらを見やったが、すぐに顔を下にもどして発掘を再開した。いまにも突っ伏しそうな中腰の姿勢で、はたから見ててもはらはらする。ぼくは休憩がてら、そのおじさんの方に近寄っていった。
「ねえおじさん、なに探してるんです? そんな格好じゃアスファルトの中に落ちちゃいますよ」
おじさんはぼくの方を向きもせず、言った。
「ああ、心配しないでおくれ。だいじょうぶだから。きみも自分の探しものに専念したまえ」
おじさんは今の自分の台詞がさすがに無愛想すぎると思いなおしたのか、しばらく置いてこうつけ加えた。
「……きみは何を探してるんだね?」
「アンモナイト。この夜の夢に出てきたアンモナイトです」
「ほう」おじさんははじめて自分の手を止めて、目を遠くの虚空に向けた。「わたしの探しているものは、きのうやきょうの夢じゃない」
ぼくはおじさんの自分は特別だとでも言いたげな物言いにすこしカチンときたので、皮肉をこめた口調で聞いた。
「へえ、それじゃああなたの探してるのはさぞやすばらしい夢なんでしょうねえ」
「そうとも」おじさんは何のてらいもなく言ってのけた。「それはそれは、すばらしいものさ」
ぼくはなんだかばからしくなって、それ以上聞くのをやめた。でもまあせっかくこのだれもいない時間に出会ったただひとりの人物なわけだし、今まで掘っていた場所もそろそろ見切りのつけどきのようだったので、ぼくも発掘の再開をこのおじさんの近くに陣取ってすることにした。
その場所はどうやらさっきのところよりはいくらか脈がありそうだった。こちらのほうがたくさんのものが埋まっている。アンモナイトにはまだお目にかかれなかったが、次々と出てくる発掘品についていろいろ想像を巡らせるのはけっこう楽しかった。
さておじさんの方はというと、あいかわらずあぶなっかしい格好で目を血走らせ自分の発掘作業に没頭していた。地面をじっとにらんでいたかと思うと突然「あっ」と声を上げ、狂ったように素手でアスファルトを掘り返す。そうしてひとしきり手を動かしてそれが無為に終わったと知ると、ため息をついてまた地面をにらむ。そんなことを、何度も何度も繰り返している。
そんなふたりを尻目に時はどんどんと過ぎていく。気がつくと空のはしっこが淡い色に染まりはじめていた。急がないとタイムリミットだ。夜が明けるとともにアスファルトはすこしずつ硬化していき、やがて完全に固まってしまう。それまでにアンモナイトを掘り出さなければいけない。ぼくはいっこうにあがらない成果に焦りを感じはじめていた。
そういうときに限って気になるのがとなりの様子だ。だがとなりのおじさんもぼくと同様、いやそれ以上に焦っているようだった。いらだちが全身から湧き出している。その姿はなにやら悲愴ですらあった。
いや、となりにかまっている暇はいよいよなさそうだ。ぼくは目をこらしてアスファルトの闇の底を探し、ついにはスコップを捨ててとなりのおじさんと同様に両手を使いだした。
そうやってるうちにも空は徐々に明るさを増してくる。あきらめて帰ることも考えはじめていたぼくは、しかしそのとき黒いタールを透かして泳ぐ巻き貝を見た。
アンモナイトだ。
ぼくはちいさく声を上げ、その影を目と手で追いかけた。ねばりけを増したアスファルトを、ぼくの手がざくざくと切って走る。そうして、やがてその指は硬くてごつごつした殻のようなものに触れた。
と、同時に、ぼくのとなりで歓声とも悲鳴ともつかない奇妙な声が聞こえた。
その声のものすごさに思わず目を向けると、おじさんが二の腕まで地面につっこんで暴れていた。おじさんも自分の探していたものをとらえたのだろうか。もうすでにかなり粘度を増しているはずのアスファルトが水のようにばしゃばしゃと波立っているところを見ると、となりの獲物はかなりの大物のようだ。でも、おじさんの顔には大物を引き当てた喜びの表情といったものはみじんもない。
ぼくは自分の指に触れるアンモナイトの感触を追いながら、まだとなりの様子を見ていた。おじさんは獲物をひっぱり上げようともがいているようだが、どうやら向こうのほうからも強い力でひっぱられているらしい。タールの下の相手の姿はよく見えなかったが、おじさんの腕に細い人間の指のようなものがからんでいるのを一瞬ぼくは見たような気がした。
おじさんは苦闘しながら、なにやらぶつぶつとつぶやいているようだった。それはヨウコとかユウコとかいう人の名前にも聞こえた。「すまない」とか「ゆるしてくれ」とかいった台詞も聞こえたが、よくはわからない。
と、しばらくしておじさんの動きが突然止まった。波立っていた地面もおさまって、まったく昼間のアスファルト道路と同じに見えるくらいに静まりかえった――おじさんの腕がそこにめり込んでいるということを除けば、だが。おじさんはその地面をひとしきり見つめて、やがてふと微笑んだ。そうして、今度ははっきり聞き取れる声でこう言った。
「そうか、そうだな。こんどはわたしが行く番だな」
おじさんはそう言うと、今度は暴れももがきもせずにずぶずぶとその体を地面に沈めていった。ぼくがはっと思って身を乗り出すと、アスファルトが自分の腕にまとわりついて引っ掛かる。もうそれほどにアスファルトは硬化を進めていたのだ。ぼくはあわてて、あらん限りの力で自分の腕をひっこ抜いた。タールでどろどろの手には黒いかたまりが握られていたが、今はそれはどうでもいい。ぼくはおじさんの方にかけよって声をあげた。
「おじさん! だめだよ沈んじゃ! もどれなくなるよ!」
おじさんはその顔をこちらに向け、笑った。
「いいんだ、それでいいんだ」
おじさんはみるみるうちに地面にひきこまれていく。空は墨汁に朱を流したようにどんどん明けていく。
「おじさん!」
「この方が……」
そのことばだけを口の端に残して、おじさんはタールに沈んだ。仕立てのけっしてよくない背広の肩が、だぶつき気味の腰が、履きつぶした皮の靴が、順々に地面に消えていった。
ぼくは茫然とその場に立ちつくし、なすすべもなく交差点の一点を見つめた。黒いタールの底におじさんの影とそれにまとわりつくようなもうひとつの影を見たような気がしたが、それを目で追う間もなくアスファルトは硬化し、にごり、昼間見なれたあの黒いかたまりに変じてしまった。途方にくれて空を見上げると、朝の光がすでにまぶしいくらいだった。
ぼくは自分の手ににぎられたものにふと気づいた。それはまぎれもなく、あの夢で見たアンモナイトだった。精緻で重々しい殻から、半透明の細いやわらかい触手が何本もうねり出ている。だが、それは思ってたよりもずっとちいさなものだった。
ぼくはアンモナイトを持って、家に帰った。もはやカチカチに固まってしまったアスファルト道路を踏みしめながら。
家に帰ってアンモナイトを水槽かなにかに移そうとしたけれど、見ると家につく前にもうそれは死んでしまっていた。ぼくはずるずるになったアンモナイトの身をひきずり出して台所の三角コーナーに捨てると、殻だけをたずさえて寝室に戻った。
ぼくは殻の手触りを楽しみながら、ていねいにていねいにそれを磨いた。正直いって期待していたほどのものではなかったが、それでもやっぱりうれしかった。
アンモナイトを磨いているうち、ぼくはまたすこし眠くなってきた。疲れたのかもしれない。ぴかぴかになったアンモナイトをまくらもとに置いて、ぼくは眠ることにした。
白いシーツに沈んでゆく意識の中で、ぼくはふとあのおじさんのことを思った。でもそれもつかの間のことで、ぼくはすぐに心地よいまどろみに落ちていった。
その眠りの中にはアンモナイトはあらわれなかった。もう二度と、アンモナイトの夢を見ることはぼくにはなかった。