非結晶の記憶

 父は、僕に形見と言えるものを何も残さなかった。死のまぎわ父は、まるで旅支度でもするかのように身の回りのものをすべて始末してしまったのだ。しかしひとつだけ、僕には父から受け取ったものがある。それは小石ほどのちっぽけなガラス玉。
 父は自分をあまり表に出さない人間だった。仕事のない時にはいつも書斎に閉じこもってじっと佇んでいる人だった。そしてその時、彼の手は必ずこのガラス玉を弄んでいたのだ。
 いつか、僕はこのガラス玉について父に聞いたことがある。父は何かを発音しようと口を動かしたが、言葉にはならなかった。失語症の気が父にはあった。僕が諦めたのを見て取ると、父はまたガラス玉の方に自分の居場所を戻した。それ以来、ガラス玉のことに触れることはほとんどなくなった。
 その話が二人の間に再登場したのは、父の死の二週間前であった。驚いたことに、話を持ち出したのは父の方だった。すでに病床についていた父は、枕元に僕をよんであのガラス玉を差し出した。そして彼にしてははっきりした口調で、こう言った。多分あらかじめ台詞を用意していたのだろう。
――人の心を何かで作るとしたなら、やっぱり材質はガラスだろうね――
 僕は微笑うだけだった。父も微笑うだけだった。
 ものの本によると、ガラスと言う物質は固体ではないらしい。結晶を形成しない、言ってみれば液体に近いものなのだという。限りなく静止に近い流動。引き延ばされた時間の中で緩やかにうねるとろりとした液体。その中に、もしかすると父は自分の思いを溶かし込んでいたのかもしれない。
 非結晶の物質の中にあやうく封じ込められた父の記憶。いま、あまりに内的だった父のためにその思いを解き放ってやろうか。それとも、父と同じように僕の思いもこの液体に託そうか。そんなことを考えながら、僕は父の書斎でこのガラス玉をずっと見つめているのだ。




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