「いいか、見てろよ、ジバクするからな、ちゃんと見てるんだぞ」
二時間目と三時間目の間の五分の休み。教室のはしっこでボンナイフを片手に声を上げているケンジを、タクミは少し離れた自分の机からぼんやり眺めていた。ジバクというのはボンナイフで自分自身の指に傷を入れることだ。この前時代劇でやっていたのをタクミも見た。たしか正しくは「ケッパン」とか言うのだ。この前一組のユウイチがやってみせたのをタクミも少しかっこいいと思っていたので、ケンジに同じことができるかということには興味があった。ただ、ケンジを取り巻く数人の生徒に加わるほどにはタクミは彼と親しくなかった。
「よーっく見てるんだぞ、お前らが証人なんだからな、これからやるぞ」
ボンナイフを自分の指にあてがいながら、ケンジは取り巻きに向かって何度も言った。
「はやくやれよー」
「スッとやっちゃった方が痛くないんだよ、チュウシャと同じで」
はやしたてる取り巻きの前で、ケンジはようやく意を決したように自分の指とボンナイフを前にかかげた。しびれを切らしかけていたタクミも、ケンジを凝視した。
「よーし、行くぞーっ!」
ナイフの刃がケンジの指に食い込んだ。そのまま横に滑らせば指先の肉が切れる。
その時、始業のチャイムが鳴った。ほとんど同時に担任の先生が教室に入ってきたので、ケンジはあわてて――しめた、という表情にも見えたのだが――ボンナイフを机の中にかくした。取り巻きの生徒も急いで自分の席にもどって教科書を広げる。先生にこんなところを見られでもしたらボンナイフを持ってくるのを禁止されることはだれもがわかっていた。ベーゴマ、メンコ、ガチャポンおもちゃ……これまでだっていつもそうだったからだ。
タクミはもう少しのところを先生に邪魔されたことと、ケンジの決断のにぶさに失望しながらのろのろと教科書を机の上に出した。先生は職員室から持ってきた表を黒板にマグネットではりつけて社会の授業をはじめた。
ボンナイフとよばれる折りたたみ式の簡単な刃物をはじめに学校に持ってきたのが誰かはわからない。だがそれはまたたく間に生徒たちに広まり、今ではこの学校の五年生の、少なくとも男子の中でボンナイフを持ってきていない者はいないはずだった。文房具としてのボンナイフがポピュラーだったのはせいぜい親の世代までで、彼らにはちゃんとカッターという便利でより安全なものがある。しかし安全性のあまり考慮されていないその機構が、かえってみんなに不思議な魅力を与えていたのだ。
タクミももちろんボンナイフを持っていた。彼の場合それはジャンパーのポケットに入っていて(筆箱に入れるよりその方がかっこいいと思ったのだ)、主に退屈な授業の間ケシゴムを刻むのに使用される。次の授業にも当然活躍してもらわなければならないので、タクミはジャンパーの右のポケットに手を入れた。
だがボンナイフを探っていたタクミの指に、さくりといういやな感触が走った。
「いつっ!」
不覚にも声を上げてしまったタクミに、教室のみんなが振り向いた。どうしたことかポケットの中のボンナイフは刃が出ていて、タクミはそれで指先を切ってしまったのだ。
「本田、どうした?」
先生が教壇からこっちへやってきてタクミの顔をのぞきこんだ。タクミはポケットの中のボンナイフに気づかれないように、笑い顔を作って言った。
「はは……教科書の紙で指切っちゃった」
「どれ、見せてみろ」
先生はタクミの手首をつかんで人差し指を見た。傷は思ったより深く、血が傷口からにじんで今にもしたたり落ちそうだった。
「こりゃちょっとひどいな、念のために保健室で消毒してバンドエイドでももらってこい。ひとりで行けるな?」
先生はタクミに命じた。タクミはそんなに大層なものでもないと思いながらも、教室を授業中に抜けだせる幸運を素直に受けることにした。
「はやく戻ってこいよ!」
先生の声を背中に聞いて、タクミは教室を出た。授業中に教室を抜けて廊下を歩くのは気持ちよかった。授業の声が聞こえる教室をいくつも横切りながら、タクミはできるだけゆっくりと歩いた。
保健室は一階の端の方にある。身体検査など以外にはほとんど入らない部屋だが、タクミはなんとなくこの部屋が好きだった。病院と同じで、なにか秘密めいたところが気にいったのかもしれない。
「失礼しまーす」
タクミは保健室の扉を細く開けて、のぞきこむようにして言った。保健室にはでっぷりと太ったおばさんの先生がいて、いつも入る時のあいさつがなっていないとか何とか生徒に小言を言うのだ。タクミは今のあいさつは少し間延びしすぎていたかもしれないなどと考えながら、入室を許可する先生の声を待った。
だが、保健室はしんとしたままだった。どうやら先生は留守らしい。タクミは扉をいっぱいに開けて中へ入った。病院と同じ消毒液の匂いがとたんにタクミの鼻につく。この匂いを、タクミは決して嫌いではなかった。
先生がいなくてもかすり傷くらいの処置はできるように、オキシドールや綿やバンドエイドなどは入口の小さな台にまとめて置いてある。よほどすっぱりと切れてしまったらしく、出血はまだ止まっていなかった。タクミは自分で綿にオキシドールを染み込ませてそっとそこに当てた。ぴりりととがった痛みが指に一瞬走った。
本当ならこの後傷口にバンドエイドでも巻いてすぐに教室にもどるのだろうが、だれもいない保健室を前にしてタクミの好奇心は少しうずいた。ガラス戸のついた棚に納められた数々の器具や内臓などの模型、そういったものを一度タクミはじっくりと見てみたかったのだ。今ほど絶好の機会がはたしてあるだろうか。
タクミは、辺りに人がいないのがわかっているのになんとなく抜き足で保健室の奥へと入っていった。タクミがふるえているのは、先生が入ってきたらどうしようかとびくびくしているからでは決してない。
タクミは棚に整然と並べられた器具をじっと見ていた。四角い銀色の盆にガーゼが敷いてあって、その上にピンセットなどがいくつも載っている。その横には血圧計や、その他のよくわからない器具が並んでいた。期待していた注射器のようなものはここにはなかった。多分そういうものは必要な時にだけ本当の医者の先生が持ってくるのだろう。
その下段には人間の胃や歯や目玉の模型が並べてあった。どれも真ん中からぱくりと開いて中身が見られるようになっており、各部にそれぞれの名称を示すシールが貼ってあった。タクミは、その精緻な造形をしばらくうっとりと眺めていた。
と、突然、かすかな人の気配にタクミは気づいた。教室の奥の方、気分が悪くなって倒れたりした生徒が休むベッドのあるところだ。そこはスチールの棚によって仕切られていて、白い布で簡単なカーテンが渡してある。
タクミがそちらを見ると、そのカーテンの間から小さな女の子の顔がこっちをのぞいていた。タクミはこの部屋に他に人がいるとは思わなかったので、つい声をあげてしまった。
「わっ!」
その声の大きさに向こうも少なからず驚いた様子で、少女はその顔をカーテンの中へ引っ込めた。タクミもすぐに保健室を出て自分の教室に帰ればよかったのだが、彼は「驚く」という情動に対して必ずしも「逃げる」という対応をする子供ではなかった。彼はその驚きのゆえに、保健室の奥のカーテンの中へと進んでいったのだった。
タクミがカーテンを上げると、ベッドの上には確かにさっき顔だけ出していた少女がいた。上体を起こして、こちらをじっと見つめている。
「あの、えっと……オッス」
タクミはぎごちない笑みを作って、そのはじめて会う少女にあいさつした。少女はしばらく黙っていたが、タクミの不器用な笑いにつられて小さく微笑んだ。
少女は清潔なシーツやカーテンや、その他の保健室にあるすべてのものと同じような白い肌をしていた。年齢はタクミと同じくらいのようだが、彼自身には少女の方が少し年上のようにも感じられた。タクミはなぜか一瞬、この部屋を満たす消毒液の匂いがすべて彼女から発散されているものだと錯覚した。
「えと……名前なんていうの? 何年生?」
タクミはとりあえず何か話さなくてはと思って、そう切りだした。そして言ってから、こういうのはまず自分が名乗ってから聞くものだということに気づいてあわててつけ足した。
「あ、おれ、本田っていうんだ。本田タクミ。五年三組。タクミってのは工作の工って書いて……」
タクミが指で空中に「工」という字を書いた時、少女はその指先の傷に気がついた。そして、突然タクミの手首をつかんでその指を見つめた。
「……っと、何すんだよ」
「傷……」
タクミは初対面の少女に急に腕をつかまれて動揺したが、気を取り直して言った。
「ああ、これ? このために保健室に来たんだけど、切っちゃったんだ。ボンナイフで」
「ボンナイフ……?」
少女はボンナイフが何かを知らないようだった。タクミはポケットから、今度は刃に触れないよう気をつけながらボンナイフを取り出した。そして、それを少女の前に掲げた。
「ほら、これ。これで切っちゃったんだ」
少女は、その刃を見てびくりと肩をふるわせた。タクミは刃を少女の方へ向けて出したことをしまったと思った。タクミはすぐに刃を折り畳んで、ポケットに戻した。
「へへ……ドジだよね」
タクミはわざと頭を掻いてへらへらと笑ってみせた。一瞬こわばった少女の顔もすぐ笑い顔に戻ったので、タクミはほっとした。なにかちょっとしたことでこわれてしまいそうなあやうさが、この少女にはあった。
「痛そう……でも、きれいな傷だわ」
少女はぽつりと言った。 その意味がタクミにはよくわからなかった。
「きれい? ヘンなこと言うなあ」
「あのね……」少女は顔をタクミの方へ近づけて、耳打ちするかのように言った。タクミの狼狽を一向に気にせぬ様子で、少女は続けた。
「あたしのからだにも、傷があるの」
「え……?」
「見る? あたしの傷」
少女はそう言ってタクミの目をじっと見つめた。タクミは少女に突然秘密を打ち明けられたような気がして、すこし怖くなった。なぜ今出会ったばかりの人間にそんなことを言うのだろう。少女はそんなタクミの困惑の表情を楽しんでいるかのように、いたずらっぽく微笑んだ。しかしタクミは彼女のまなざしから自分の傷を見てほしいという懇願、もしくは見ろという強い命令のようなものを読み取った。タクミはわけもわからぬまま、ただ「うん」と言うほか何もできなかった。
少女はゆっくりとシーツから両足を出し、タクミとまっすぐ向き合うように座り直した。そして、自分のブラウスに手をかけてひとつずつボタンをはずしはじめた。その動作のあまりのなにげなさに、タクミはかえって緊張した。自分はいてはいけないところにいて、見てはいけないものを見ようとしている。タクミはそう感じながら、しかし少しずつ見えてくる少女の白い胸から目を離すことができずにいた。タクミはなにかに呪縛されていた。それは好奇心と地続きのようでいて、しかし大切な一部分があきらかに異なるまったく未知の情動だった。
やがて少女はすべてのボタンをはずし終え、ブラウスを脱いだ。少女はブラウスの下には何もつけていなかった。深くえぐれたような溝を作って浮き立つ鎖骨や小さな肩の痛々しさを、胸のささやかな、しかしはっきりそれとわかるふくらみがかろうじて救っている。まだ張り出したばかりにちがいないその乳房には、うっすらと青い血管が透けてみえていた。
だが、タクミの目を釘付けにしたのは別のところだった。少女の左の乳房の下、肋骨に沿うようにして、一筋の大きな傷跡が走っている。手術の跡だった。
少女はタクミの驚く顔を確認するようにして、言った。
「あたしね、片方の肺がないの」
「……肺が?」
「だから、時々ふっと気が遠くなるの。今日も一時間目から倒れて、それで休んでるの」
タクミは少女の今にも消えてなくなりそうな透明感のわけが理解できたような気がした。なぜだかわからないが、タクミには少女が無性にうらやましく思えた。
「うんとちいちゃいときにね、手術でとっちゃったの。これが、その時の跡」
少女は自分の指でその傷跡をなでた。それはまるで、その傷をいつくしんでいるかのようにタクミには見えた。
「……ムカデ、みたいだ」
タクミはふとつぶやいた。間抜けたたとえだっだと口に出してから思ったが、本当にその傷は少女の透き通った肌の上で百足のように赤黒く、毒々しく浮き立っていた。タクミは今の自分のことばで少女が気を悪くしなかったかと思って相手の表情を伺った。少女はほんのすこし間をおいてから、笑った。
「ムカデ……ふふふ、ほんとだ。うまいこと言うねえ」
少女のその笑いを見て、タクミもつられるように笑った。わけのわからぬ緊張が、ほんのすこし和らいだような気がした。
「ねえ……さわって」
笑いがおさまったあと、少女はぽつりと言った。
「え?」
「さわって、あたしの傷」
「……いいの?」
タクミは、またしても不覚だったと思った。これではまるで自分から彼女の傷にさわりたいとねだっているように聞こえるではないか。しかし、実のところそれは決して間違いではなかった。少女は、あるいはタクミのそんな気持ちを見透かしているのかもしれなかった。
タクミはゆっくりと手を伸ばし、ふるえる指先で少女の傷跡に触れた。少女が一瞬からだをぴくりと動かしたのでタクミは驚いたが、別に痛がっているわけでもないようだった。タクミは指先で傷口をそっとなぞった。ナイフの傷の分だけ鋭敏になっているその指先から、少女の傷跡の固くなった凹凸が伝わってくる。
「ふふ、くすぐったい」
少女は喉元を小刻みにふるわせ、笑いをこらえた。その表情は奇妙な高揚をともなってタクミのからだをも支配した。肉と神経の露出部を通して、ふたりはひとつの感覚を共有していたのだった。
「あ、血……」
ふと、少女が声をもらした。タクミははっとして少女の傷口を見た。黒くこわばっているはずのそこは、まるで今ぱっくりと切られたばかりのような生々しい赤に染まっていた。タクミが指の動きを止めると、一筋の血がその場所からたらりと滴り落ちた。いつのまにか指の傷がまた開いていて、そこからの出血がタクミのなぞった少女の傷跡に沿って真紅の筋を引いていたのだ。血は、タクミの指先から少女の腹部をつたって流れていった。
「あったかい」
少女はそうつぶやいてタクミの血を人差し指ですくい、その指でくちびるをぬぐった。自分の血で縁どられた少女の唇を見て、タクミはくらりとめまいを憶えた。オキシドールの匂いを吸い込みすぎたときのように。
「タクミくんの指はナイフみたいだ」
少女はうたうように言った。自分の名前をはじめて呼ばれて、タクミは催眠術から覚めたように我にかえった。指をようやく少女のからだから離す。傷口からちらりとのぞくピンク色の肉を見つめて、忘れていた痛みがよみがえってくるのをタクミは感じた。
そしてそれを合図にしたかのように、がたんという不快な音が戸口の方から聞こえた。
タクミがあわてて少女の方を見ると、少女はすでにブラウスを羽織ってボタンをとめているところだった。少女のからだについたタクミの血はもう乾いてしまっていたようだ。少女は唇の血を舌でぬぐいとることも忘れなかった。やがて、カーテンをあげて先生が入ってくる。
「あなた、こんなところで何してるの!」
先生はタクミに向かって怒鳴った。
「あの、ちょっと、ケガしちゃって。自分で消毒したから。……おじゃましました!」
タクミはそう早口でまくしたてて、保健室から逃げ去った。教室に帰ったら帰ったで、担任の先生からなぜこんなに時間がかかったのかを咎められなければならない。廊下を小走りに教室へ向かいながら、タクミは都合のよい言い訳がなにかないか懸命に考えた。その時、結局少女の名前を聞かずじまいだったことにふと気がついた。
その後タクミは何度か意識的に少女の姿を探したが、ついに二度と出会うことはなかった。ケンジがジバクに成功したという話を聞いてからはボンナイフにも興味がなくなり、タクミのポケットの中でそれは閉じられたままいつのまにか錆びついてしまった。そして指の傷がふさがって跡もほとんど消えたころ、担任の先生はボンナイフを学校に持ち込むことを禁止する指示を生徒に出した。