猫と子供たちの国

 夜、となりの家の子供が窓ごしに僕を呼ぶ。真っ赤にはらした目をして、僕に向かって叫んでいる。
――ねえおにいちゃんどうしようぼくのミミがぼくの猫のミミがいなくなっちゃったさがしにいくっていったのにパパやママはゆるしてくれないんだねえおにいちゃんぼくはどうしたらいいのいったいどうしたら――

 大人たちは子供に言う。
「猫がいなくなっても決してその後を追ってはいけません。けっして!」
 なぜなら、家出猫を追う子供はもう二度と家には帰ってこないからだ。
 例外なく。

――ミミは猫のミミはいつもぼくといっしょにいたんだぼくがようちえんのときからねえおにいちゃんなぜパパやママはミミをさがしにいくのをゆるしてくれないんだろうねえなぜどうして――

 これまで何匹もの猫が家を出、そしてその後を追って何人もの子供が家を出た。子供たちは猫を追ううちやがて誰も知らない場所にたどりつく。そこは家出猫と子供たちの国だ。地図にはない、大人たちの知らない猫と子供だけの国だ。

――ぼくはなんどもなんどもパパやママにおねがいしたんだミミをさがしにぼくをいかせてってそしたらパパはおこってぼくをなぐるんだママはうしろでいつまでも泣いてるんだねえぼくはそんなにわるいことをしようとしているのぼくはただミミがすきなだけなのに――

 何年も前、僕の飼っていた猫も家を出た。僕は必死になってその猫を探した。夕御飯のことも七時からのテレビのことも明日の宿題のことも考えず、夢中で探し回った。そして空が暮れてきたころ、となり町の角でついに猫を見つけた。塀づたいに歩いていく猫の後を、僕はどんどん追っていった。
 だが、僕は途中で突然ふたりの警官に腕をつかまえられた。親が派出所に捜索願いを出していたのだ。大人たちの太い腕の中でもがく僕を猫はちらりとだけ眺めて、すぐにまた塀の上を歩いていった。
 そんなわけで、僕は猫と子供たちの国にたどりつくことなくこの世界にとどまっている。そして安い酒を飲みながら、朝刊とともにやってくる紙ぺらの一日を処理していくのだ。

――おにいちゃんねえおにいちゃん猫をさがしにいくのはそんなにいけないのおにいちゃんもいけないっていうのぼくはミミのいないうちなんかにはいたくないよ――

 僕は必死で耳をふさぐ。子供の泣きじゃくる声を聞かないように。僕は必死で口をふさぐ。アルコールとタールと詭弁のからみついた舌が不相応な夢想を繰り出さないように。「猫を探して家を出ろ」僕はそのひとことを酒と一緒に飲みくだし、かわりにくさった胃液を吐く。
 やがて声は静まり、窓から明かりが消える。そして、少年は僕らの仲間になる。

 ようこそ、夜の底へ。猫と子供たちの国へ行けなかった者たちが沈殿する場所へ。




『A CUP OF STORY』 もくじにもどる
タイトルページにもどる


copyright(C)1996-2009 FUJII,HIROSHI all rights reserved.