この街を歩くのはいつだって楽しいけれど、小雨の降る日となると格別だ。ぼくは宙に浮かんだガラス針のような雨を拾いながら、どこへ向かうでもなく街をふらついていた。この街は時間の進み方がひどくのろくて、雨もちょっと見には動いているのかどうかわからないくらいの速度で落ちる。その落ちている最中の雨をたくさん集めてポケットに入れておけば、歩くたびにしゃらしゃらと涼しい音を立ててとても心地がいい。
マネキンの林のような人ごみをすりぬけて、ぼくはどんどん歩いた。この街を歩くとぼくの心はひんやりと澄んでくる。だれもいない美術館とか授業時間中の学校の廊下とか、そういう特別な場所を歩く時にだけ感じることのできる甘やかなさみしさ。
そろそろポケットもいっぱいになってきたころ、ぼくは道の向こうにユカコさんをみつけた。ユカコさんはこの街で知りあった、ぼくと同じ時間を持つただひとりの人だ。ユカコさんの方へ駆け寄っていくと、ポケットの雨の音でユカコさんはすぐこっちに気がついた。
「ユカコさーん!」
「あら、ひさしぶりねえ」
ユカコさんはにっこりと顔全体でぼくに笑いかけた。
「小雨の日だものね、あなたも出てくると思ってたわ」
ユカコさんはそう言ってその長い髪をかきあげた。髪にひっかかっていた雨のかけらがしゃりんとかすかな音をたてて落ちる。落ちるといってもこの街のことだから、雨つぶはユカコさんの髪を離れた瞬間に空中で静止したように見える。とてもきれいだ。
だけど、それより僕にはさっきから気になっていたものがあった。ユカコさんのとなりにあるもののことだ。
「ところでユカコさん、それ……」
「あ、これ? おもしろいでしょう」
そこにあったのは、人だった。背広の中年男。それは頭を下にして、ぴくりともせず宙に浮かんでいた。ものすごい形相の顔が地面から二十センチくらいのところにある。
「もしかして……」
ユカコさんはいかにも楽しくてしかたないという様子で答えた。
「うん。落ちてる最中みたい。たぶんこのビルの屋上からだと思うんだけど」
ぼくは目の前のビルを見上げた。十二階建てくらいだろうか。
「あたしが見つけたときは膝んところくらいに顔があったんだけどね、じっと見てるうちにだいぶ地面に近づいてきたみたい」
ぼくはその逆立ち男の周りをぐるっと回って観察した。たしかにこんなのはなかなかお目にかかれるものではない。ちょっと不気味で、そしてこっけいだ。
「なにがおかしいってね、ほら、ここ」
ユカコさんは男の足を指して言った。その足は靴下だけで、靴をはいていなかった。ユカコさんはその指を今度ははるか上、ビルの屋上の方へ持っていった。つられて目をやると、屋上の縁に彼の靴らしいものがぽつんと一足見える。
「あ、靴脱いである」
「なんでわざわざ靴脱ぐんだろうねえ」
「……ほんと、おかしいや」
「行儀のいい人だったのかしら」
ぼくらはひとしきり笑ってから、またしばらく男を眺めていた。もうすこし時間がたてば男は地面に激突するだろう。ゆっくりと、ルビーのようなものをたくさんとばして。
「でも、こうして見るとちょっとふしぎだな」
「え? なにが?」
誰に向けるでもなくふともらしたぼくの言葉に、ユカコさんは敏感に反応した。ユカコさんは人の話をまるでプレゼントの箱を開くときのような好奇心をもって聞く。人の話を聞くことがひとつの技能だとすれば、ユカコさんはその達人だった。だからぼくはついついしゃべりすぎてしまう。
「この人はこの人の時間でいえば次の一瞬で頭を地面にぶつけて死んじゃうんでしょ」
「そうね。死んじゃうね、ぜったい」
「でも、今はまだ地面に頭はついてない。体には傷ひとつついてないし、たぶん痛くもない」
「そうね」
「じゃ、この人はまだ死んでないんだろうか」
「……?」
ユカコさんはちょっと首をかしげて、ぼくの次の台詞をうながす。
「うーんと、つまりね、今この時点、あと……もう十センチくらいになってるかな……地面から十センチまできた状態で、この人はもう助かりっこないじゃない。これが五センチになって、一センチになって、一ミリになって……それってこの人にしてみれば感じることができないほどの一瞬でしょ。そんな一瞬を『まだ生きてる』って言えるのかな、って……」
自分でもだんだんこんがらがってきたけれど、とにかくしゃべり続ける。しゃべっているうちに勝手にことばの方でまとまってくれるかもしれない。
「あと、逆に、この人の頭が地面について、血が出て、それで『死んだ』ことになるんだろうか。脳味噌がぜんぶつぶれてから? でも脳味噌がぜんぶつぶれちゃっても心臓はまだすこしのあいだは動いてるかもしれない。心臓が止まっても、足の先の細胞とかはもうすこし長い間生きてるかもしれない。だから……要するに、うーんと……ユカコさん、ぼくの言ってることってわけわかんない?」
ぼくはユカコさんが混乱してないか、いや最悪の場合退屈してやしないかと心配になってその表情をうかがった。そんなぼくのあせりを読み取って、ユカコさんはくすりと笑う。
「言いたいことはなんとなくわかるわ。この人はいつ、どの時点で『生きてる』から『死んでる』になるんだろうってことでしょ?」
「うん、そう!それなんだ」
ぼくは調子よく手を打ってうなずいた。ユカコさんは人さし指を唇に軽くあてがって――ユカコさんの癖だ――すこしだけ考えたあと、口を開いた。
「ええとね……こういうことじゃないかな。きっとこの人は今『死んでる最中』なのよ」
「『死んでる最中』?」
「そう。死ぬっていうのはある一点なんじゃなくて、手順をふんでいく『お仕事』全体のことだと思うのね。今この人はいっしょうけんめい死んでるとこなの」
「……うーん……」
「だからこの人のどの一瞬をとっても『死んでる』だし、どの一瞬でもそれだけでは『死んでる』じゃないの」
こんどはぼくが考え込む番だった。
「なんかはぐらかされたような感じだなあ……」
「まあ、あんまりややこしく考えなきゃいいんじゃない?」
ユカコさんはそう言うとしゃがみこんで男と地面のあいだを覗き込んだ。あと五センチ。髪の何本かがもう地面にさわっている。
「お仕事、か……」ぼくはまだ釈然としない。「じゃあ、そのお仕事はいつはじまるんだろ?」
「え?」
「ぼくらは今たしかに生きてるよね? その状態から、ぼくらはいつ死にだすんだろう?」
ユカコさんはもういちど立ち上がって、猫のように大きくのびあがった。そして頭上、あの男の靴が置かれているビルのてっぺんを見上げて、言った。
「『生きてる』っていうのは、つまりそれが『死んでる最中』ってことなのよ」
ユカコさんはじっとビルに残された靴を見つめていた。そしてぼくは地面を――そろそろ男の額が接触しはじめた地面の方ばかりを気にしている。