サハラ砂漠であなたとお茶を

 夜の隅にうずくまる女。煙草の先の小さな炎が、彼女の土色の顔を浮かび上がらせる。傍らではたった今まで肉を貪り合っていた男が、死んだように眠っている。
 なぜ、そのまま死んでしまわないのだろう。
 彼女の性器はくだらない男たちの吐く息のために腐ってしまった。お互いを信じ合い尊敬し合える男にしか見せないと少女のころに誓ったその場所は、もはや澱んだ夜を粉砕する処理機に過ぎない。やがて彼女はそこから膿んでくる。膿でできた子供がそこに宿る。
 窓に夜景。彼女はこの風景が嫌いだ。それは、あるいは自分に似ているからかもしれない。いびつで、複雑で、だから隠れるための陰がたくさんある。
 男の目を覚まさないように、彼女はぼそりとつぶやいた。
――砂漠へ行きたい。


 小学生。催促したわけでもないのに親が鍵のついた部屋を与えてくれたのがひと月前。狭い部屋だったが、彼にはそこが一番の魅力だった。隠れ家は狭ければ狭いほどいい。部屋をわざと散らかして、いろいろなものにうずもれているのが彼は大好きだった。すべてのものが手を伸ばして届く範囲にある、そのことが彼に安心感を与えていた。
 そんな部屋で眠るようになった、ある夜。まどろみに落ち込もうとしたちょうどその時彼はかすかな音を聞いた。それは人の声のようだった。
 それは泣いているようにも苦しんでいるようにも、また笑っているようにも聞こえた。声の主はふたりだ。今まで聞いたことのないその声の恐ろしさに震えながら、彼は耳を澄まさずにはおれなかった。そして、やがてその声が父と母のものであることに気づく。
 父と母がなぜあんな声を出しているのか、彼には理解できなかった。だが、自分にひとり部屋を与えられた理由がわかったような気がなぜかした。
 その夜以来、彼はこの鍵のかかる狭い部屋を息苦しく感じるようになった。あの声がまた聞こえてきたら、それを合図に四方の壁が迫ってきて自分を押しつぶすのではないかという気がして夜も眠れなかった。隠れる喜びは、今や隠されている不安にすり替わってしまった。それを取り除くために、彼は夜の来るたびシーツの中で自分が知っている限り広い、開け放たれた空間を思い浮かべる。そうして、ようやく眠りにつく。
――砂漠へ行きたい。


 サラリーマン。夕刻。地下鉄を乗り継いで家へ帰る。風景を持たないこの移動機関が、彼は嫌いではなかった。何よりも、自分に似合っていると思っていた。
 会社では係長と呼ばれる。家ではお父さんと呼ばれる。小説家、と呼ばれるようになりたかったことも昔あった。だが今地下鉄に揺られているこの時間は、彼は何でもない。それを一番心地よいと思いはじめた時から、たくさんの「余計なもの」が彼の生活に必要でなくなった。それは夢とか、そういうものだ。
 だが、ほんの一瞬、「余計なもの」が頭をかすめることもある。
 乗る時買った雑誌を読む。それは自分自身を収納する一種の箱である。つまらない読み物でも、それに集中していれば他のものからは隔絶されたままでいられる。そうやって、目的地までの長い時間を過ごす。だが、列車がいくつめかの駅に停まった時、乗り込んでくる客に彼ははたと目を留めた。誰もが傘を携えていて、雨のしずくが床に流れている。
 そして、彼ははじめて外が雨であることを知る。
 余計なことを思うのは、たとえばそんな時だ。
――砂漠へ、行きたい。


 砂漠へ行こう。砂漠には、なにかをなにかから隔てるものは何もない。なにかをなにかから隠す場所はどこにもない。だから、見渡して目に入るものが世界のすべてだ。西の果てから東の果てまで、南の果てから北の果てまで、空の上から足元の砂まで、全体を僕らは把握することができる。

 だが、すべてを見透せるということは、つまりその世界が「閉じている」ということだ。




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