潮干狩り

 ぼくは浜辺を歩いている。空はまるで薄荷水のように透きとおって、雲ははじける炭酸の泡。そして、海の方には数十メートルはあろうかという大津波。いまにも襲いかかろうという勢いで、でもそれはそのまま静止している。
 時間の進み方が、ぼくと津波とで違っているのだ。いつからそうなったのかは知らないけれど、いままできれいに揃っていた時間の流れはある日突然ばらばらになってしまったらしい。テレビではそれを「世界の終わり」だとか言っていた。「あと数分で世界はほろぶ」のだそうだ。もっとも家でそれを聞いてから、ぼくはかれこれ四時間くらい浜辺を歩きつづけているのだけれど。
 強い陽射しをきらきらと反射する波涛はとてもきれいで、ぼくはときどき歩を止めてうっとりと見つめてしまう。やがてこの波はぼくらをすべて飲み込んでしまうのだろう。でも、それはぼくの時間ではずっとずっと先のことだ。
 しばらくして、ぼくはまた歩きだす。右手には貝であふれそうなバケツを提げている。大波が来る前の砂浜は潮がすっかり退いて、潮干狩りのかっこうのポイントだ。じゃらじゃらと心地よい音をたてながらぼくは、これを塩でゆでるのがいいかそれともワインで蒸した方がいいか、そんなことをうきうきしながら考えている。
 と、一瞬ぼくの頬をさあっと風がなでたような気がした。だが、それが風でないことはすぐにわかった。ぼくの空いている左手に一枚の便箋が握らされていることに気づいたからだ。
「チイコさん?」
 ぼくはあたりを見回しながらそう呼んでみた。
 チイコさんはぼくがむかし好きだったひとだ。この浜辺をいっしょに歩いたことも何度かある。でも、いまはもうどうでもよくなってしまった。ぼくとチイコさんは、もはや同じ時間の中にはいないのだ。
 ぼくがいまチイコさんの名を呼んでも、彼女には低くて長い地鳴りのようにしか聞こえないだろう。それにぼくがそれを発声し終わるまでチイコさんがそばにいたら、きっと彼女は飢え死にしてしまうにちがいない。
 ぼくは便箋をのろのろと開いてみた。そこには特徴のあるちいさな字でこう書いてあった。
“わすれない”
 それを読んでぼくは苦笑した。時間の流れがめちゃくちゃになってしまったこの世界で、わすれるわすれないなんてことにいったいどんな意味がある? もしぼくのことをわすれそうになったら、またこの浜辺にくればいい。たぶん彼女が彼女の時間でその一生を終えるまで、ぼくはここを歩いているだろうから。
 ぼくはちょっとおかしくなって、バケツをぶんぶん振り回した。でも、そのときタイミングをすこしあやまって、ぼくはバケツの中の貝たちを空中にぜんぶぶちまけてしまった。
「……あーあ」
 バケツからとび出した貝は、海水といっしょに空中でかたまっていた。玉になった飛沫がガラスのように光を反射している。これではもうぼくにはどうしようもない。それらはぼくの時間からは離れてしまったのだから。
 ぼくはせっかくの収穫を逃したことをすこしくやしく思ったけれど、やがて気を取り直した。なあに、また拾えばいいさ。時間はたっぷりある。
 ぼくは気晴らしに、大声で歌を歌いながら歩いた。それは古い恋の歌だったが、異国のものなので意味は自分でもよくわからなかった。
 この歌もぼくのくちびるを離れたとたんに違う波長になって、ぼくの歌ではなくなってしまうのだろうか。そんなことを一瞬考えて、すぐにやめた。
 ふと気づくと、ぼくの胸もとにちいさなナイフが刺さっていた。目の前に笑顔で立つチイコさんの姿が一瞬だけ見えたような気がした。血が一滴傷口からあふれている。それは小さなルビー玉のように動かない。いつかぼくはここから血を吹いて死んでしまうのだろうか。津波に飲まれるのとどちらが早いだろう。
 まあ、どちらにしてもそれはずっと先のことだ。ぼくは歌を歌いながら、またもういちど潮干狩りのできる場所を探して歩きはじめた。




『A CUP OF STORY』 もくじにもどる
タイトルページにもどる


copyright(C)1996-2009 FUJII,HIROSHI all rights reserved.