静かに

 真夜中。眠るタイミングを逸してしまって、何度も寝返りを打つ憂鬱な夜。眠りを焦れば焦るほど、神経はナイフのようにとがってゆく。君は明日に会う友や、明日起こるかもしれない出来事、そして明日に課せられた仕事のことを考える。
 そうして、君は初めて気づく。夜の何と寂しいことか。夜の何と孤独なことか。今この時、僕は世界から隔てられているのではないだろうか。そして君は恐怖する。大海にひとり打ち放たれた漂流者のように。
 たまらなくなって、君は叫ぶ。夜の闇に飲み込まれる恐怖を振り払うために、声なき声を振りしぼる。
「僕はここにいる。ここにいるんだ」


 こうした何千何万の「ここにいる」は、夜の大気に舞い上がり、雲のようによどみ、ささやかなネットワークを形作る。そして、夜を生きるすべての人にそのメッセージを発信する。
「僕もここにいるよ。君はひとりじゃない」


 静かに。夜の闇に耳を澄ませ。何十キロ先のともしびの向こうから、君に語りかける声が聞こえる。朝起きた時にはきっと忘れているけれど、人は誰でもそれらの声に見守られてようやく眠りにつくのだ。
「みんな、みんなここにいるよ」


 あと数時間で世界は光に包まれるだろう。君は髪を整え、当たり前のように街へ繰り出す。そうしてときどき、眠りにおちいる瞬間の感触を思い出そうとしたりする。
 だが、それはかなわぬことだ。




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