午前五時。この時間の魔力について知っている人はそう多くない。夜が朝へと変わる、魔法の儀式。空は静かに、誰にも悟られないように明るみはじめる。冷たい大気はいっせいに軽くなり、いつしか星の消えた空へ舞い上がる。大勢の人々や車や街は、まだそれに気づいてはいない。
僕は、ある日その儀式に立ち合おうと思いついた。普段ならそんなこと考えもせずにベッドにうずくまっているころだが、徹夜明けの僕の脳みそはそのアイデアにかなりの興味を示したのだ。時計は午前四時半。眠くはなかった。僕はさっそく外へ出た。思いついて、画材一式つめこんだバッグを持っていった。学校の美術部にはもうだいぶ顔を出していなかったので、何かひとつぐらい絵を描かねばと前から思っていたのだ。
外は、まだ暗かった。夜の黒はいくぶん薄まってはいたけれど、星が見えていた。いい時間だな、と僕は思った。自転車をもうすこし走らせると見晴らしのよい丘に着くはずだった。何となくわくわくしてくる。
アスファルトのにおいのする静かな道には、人も車も見えない。ただ信号だけが律義に灯っている。広い道を好きなように乗り回すのは楽しかった。
そうやって走っているうち、ふと道のわきに人影を見つけた。近づくにつれ、それが子供であることがわかる。つなぎのジーンズを着たその子は、いつしか青みがかってきた空をただじっと見つめていた。青空の青ではない、黒の延長としての青。
この子はいったいこんな時間に何をしてるんだ、僕は自分をたなに上げて思った。だがそのうち何となく、この本日初めて会った人間に親近感がわいてきて僕は男の子の前で自転車を止めた。
「やあ、おはよう」
男の子は今まで空に向けていた顔をこっちへ向けて、きょとんとした顔で言った。「おはよう……お兄ちゃん、牛乳屋さんのひと?」
どうもこんな時間に街をうろうろしているのは牛乳屋くらいしかないようである。しかし牛乳屋というのは毎朝こんな人の死に絶えた街を走っているのだろうか。
「いや……」牛乳屋でなかったら何なのか、説明するのに困った。
「君はなんでこんな時間に?」
男の子は笑って、言った。
「空を塗るひとを待ってるんだ、ぼく」
僕の怪訝そうな顔を男の子は読み取った。
「……知らないの、お兄ちゃん? 学校いってんだろ?」
言葉を返す気力が失せた。
「いい? あのね、朝の五時になるとね、ペンキ持ったひとが空にのぼって、空を塗りかえるんだ」
男の子は、大きく手を広げたり背伸びをしたりしてていねいに説明した。その真剣さと今どき珍しい発想に、僕は思わずふきだしてしまった。すると案の定男の子は「なぁんだよぉ」とふくれた声を出した。
「ごめんごめん、面白いよ」
僕は適当にその場をとりつくろって、男の子と別れようとした。もう空は知らないうちに青みを増している。僕は幼児番組のお兄さんがよくやる笑みを作って、男の子に手を振った。バッグを肩に掛け直して自転車に乗り、優しいお兄さん笑いを維持しながらペダルに足を掛けた。その時、男の子が「あっ」と声を上げた。
「お兄ちゃん、それ!」
見ると、バッグから一番太い筆がはみ出していた。使い倒して毛がばさばさになっている。
「あ、これね。ちょっと絵を描こうと……」
男の子の僕を見る目が変っているのにその時気づいた。イヤな予感がした。
「お兄ちゃん、空を塗るひとだろ!」
僕が体勢を整えるより早く、男の子のアッパーは炸烈した。あきれて何か言ってやろうと思ったが、この時男の子の尊敬に満ちた眼差しはすでに僕の体のまわりをぐるぐると取り囲んでいたのだ。
「ね、そうだよ、絶対!」男の子はぎゅっと僕に抱きついて、力いっぱい揺さぶった。男の子と僕のまわりの空気がきんきらと美化されていった。
「お兄ちゃん、空を塗りかえてみてよ! その筆で!」
何かやらなきゃ放してくれそうになかった。こんな場合、真似だけでも子供は喜ぶのだろうか。それとも本当に空を塗りかえるまでつきまとうのだろうか。まさか僕のみじめな正体を知って落ち込んでしまうのでは――それが一番怖かった。でもこのまま男の子を振りほどいてさっさと逃げるのが最良の策とはとうてい思えない。僕は筆を引っこ抜き、めんどくさそうに――実際にはこの時から少し面白がってたのかもしれないのだが――東の空にかかげてみせた。できるだけ大仰に構え、精神統一でもしてるかのようなポーズを取りながら男の子の様子をうかがってみると、その期待の視線が狂暴さを増していた。牛乳屋が通ってこないのを僕は祈った。
一呼吸おいて、僕は筆を動かし始めた。あの空に続いている大気の厚いキャンバスを、僕のちっぽけな筆が横切った。その時は気づかなかったが、僕は真剣になっていた。
そして――空は塗りかえられた。
筆が空の暗い部分に光る白を重ね、キャンバスいっぱいに伸ばした。それは生まれてはじめて目を開いたとき、僕が感じたにちがいない白だった。僕はさらに筆を動かした。次に描かれたのは、黄金色の雲。ねっとりとした密度の濃い絵の具は、小学生の頃友達に自慢していた水彩の金色だった。金色の絵の具は白に溶けてグラデーションを作り、やがては完全に薄らいでしまう。まるであの時の記憶のように。
「わあ、すごい!」
男の子が歓声を上げた。僕は空をすっかり塗り終え、その仕事に満足していた。
今から思えばこれは寝不足のふたりの変り者がみた他愛のない夢だったのかもしれないし、あるいはただ偶然日の出のタイミングが僕のポーズとぴったりあっただけだったのかもしれなかった。けれど僕と男の子は、そんなこととは全く別の確信を持っていたのだ。
「やっぱりそうだったんだね、お兄ちゃん!」
そうだったのだ。永い間忘れていたけれど、僕はそうだったのだ。幼い頃から、僕はずっと空を塗り続けてきたのだ。いつ、なぜ忘れてしまったのかはわからない。だがそんなことはもうどうでもよかった。僕はもう思い出したのだ。
男の子が僕の体をゆさぶっている。僕はその子の頭を抱きかかえて、塗りかわったばかりの空に見入っていた。説明のできない、ふわふわした感覚をふたりは味わっていた。その横を、寝坊して秘密を見そこねた牛乳屋が足早に走っていった。