先日新宿の「王様のアイデア」で、シーモンキーを衝動買いしてしまった。説明書通りに水を一日汲み置きし、そこに卵の入った粉を投入すると、すぐさまちっちゃいシーモンキーがうごめきだす。これでワタシも立派なシーモンキャーだ。近日中にシーモンキーの飼育日記でもはじめようかと考えている。
……と、まったくカンケーない前振りをしつつ、今回は「あめ」の話である。ワタシは何ヶ月かに一度発作的に果汁グミを食いたくなる以外はあまりお菓子に興味がないのだが、先日あるコンビニのお菓子コーナーにふらふらと足が向いた際、つい一袋のキャンディーを手に取ってしまった。それが写真の「お風呂屋さんのゆあがりソーダ」である。
商品コンセプトとしては、「お風呂上がりの銭湯で飲むコーラやラムネの味をキャンディーに」ということなのであろう。しかしこのパッケージイラストはどうだ。これが「湯上がりのさわやかさ」の具現化なのか。胸毛生えてるし。腰に手当ててるし。しかも吉田戦車入ってるし。
ちなみに製造元は愛知県の「リボン」という会社。店頭からすぐ姿を消すことは想像に難くないので、さわやかになりたい人はコンビニに急いでいただきたい。(19960520)
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「天下一品」というラーメン屋のチェーン店が京都にある。ポタージュのごとくドロドロしたスープが特徴で、嫌いなヒトは二度と寄りつかないが、気に入るとやみつきになるという異能ラーメンだ。東京にも新宿などに数店舗が進出している。
で、最近その天一(地元民はこう呼ぶ)のCMが関西エリアのテレビによく流れるようになったのだが、これがなかなかにすごい。何がすごいって、とにかくとてつもなく大仰なのだ。
このCMにはストーリーがある。舞台は(なぜか)異世界。(なぜか)囚われの姫(たぶん)を助けるため、勇者たち(たぶん)が冒険の旅に出る。行く手を阻む幾多の障害! 剣と魔法の応酬! 飛び交う飛空挺! でも最後にはみんなでラーメン食う。
けっこうきちんとしたビジュアルでCGもバリバリ、全体的に『ファイナルファンタジー』的なノリの作品である。最後まで観なければ、新作ゲームかなにかのCMだと思ってしまう。でも最後にはみんなでラーメン食うんだけど。
関西CMにはこういう「大仰の伝統」というのは昔からあるのだが(巨大な宇宙船が意味もなく画面をかすめ飛ぶお好み焼きのCMとか)、この天一のCMはその中でもひさびさのヒットである。これを観てラーメンが食いたくなるかどうかはさておき、めったやたらと目立つことだけは確かだ。これからの天一のCM展開に期待したい。いやそんなに展開しないとは思うけど。(19960506)
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LINKのコーナーに『未来世紀ブラジル』のFAQを入れてるせいか、しばしば「あなたもモンティパイソン好きですか? 私も好きです」といったメールをいただく。そういった方々にはたいへん申し訳ないのだが、あまり誤解され続けるのも尻の座りが悪いので白状してしまおう。実はワタシは、モンティパイソンがそれほど好きなわけではないんである。というか、なんかピンとこない。確かにテリー・ギリアムは当代一の異能クリエイターだとは思うけど、ワタシが入れ込んでるのは『バンデッドQ』『未来世紀ブラジル』『バロン』のいわゆる3部作であって、たとえば『フィッシャーキング』なんかはあんまりよい出来だとは思わなかった。他のパイソン一座関係の映画にしても、『ワンダとダイヤと優しい奴ら』や『エリック・ザ・バイキング』を面白いと言う人の神経はワタシにはイマイチわからない。
かの『空飛ぶサーカス』は80年代にビデオがリリースされた時に片っ端から観たが(テレビ放送はうちの地域では入らなかった)、それとて爆笑を誘うものではなかった。もちろん笑ったネタや大好きなネタはいくつもあるけど(「美しく青きドナウ」を奏でながら爆発する弦楽四重奏とか)、あれなら吉本新喜劇の方がワタシには合っている。景山民夫とかのつけた字幕もサイテーだったし。
ワタシは前から疑っているのだが、「モンティパイソンが好き」と標榜するヒトは、本当にみんなあれで笑っているのだろうか。その何割かは本当にモンティパイソンを面白いと感じているのではなく、単に「モンティパイソンという記号」に反応している(もしくは反応しなければならないと思っている)だけなのではないのか。まあ「何で笑うか」のツボってのはヒトそれぞれだし、ワタシがどうこう言う筋合いのモンじゃないんだけど、なんか「モンティパイソンで笑う=ハイセンス」という図式ができちゃっててみんなそれに乗っかってるだけなんとちゃうの? と思ってしまう。
昔いとうせいこうだかが「共同体維持の笑い」について書いていた。小劇場なんかでライブをやってると、ちょっとクセのある「キーワード」を投げかけるだけですぐに客が笑う。哲学者の名前を並べたら、もうそれだけで笑う。「フロイト」と言うより、「ジグムント・フロイト」とフルネームで言う方がより客が笑う。つまりこれは身体的に沸き起こる笑いじゃなくて、「おれはそれを知ってるんだ、それで笑えるんだ」という確認と、「ここで笑わなきゃ取り残される」という怖れから来るいびつな笑いなのね。ここ10年来の日本におけるモンティパイソン礼賛の空気には、そういう腐臭がふんぷんとまとわりついてるとワタシは思うんだけど。
ま、ホントーにモンティパイソンで腹を抱えて笑えるというヒトは、こんな戯れ言は気にしないでください。でもワタシには「まさかの時のスペイン宗教裁判」よりは、セットの壁にブチ当てられて「うふっ、やさしいのね」とうそぶく島田珠代の方が笑える。ワタシはそういうニンゲンです。すまないけど。(19960504)
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ちいさいころに見聞きして感銘を受けたものの、タイトルや作者などのデータをを覚えていないので再会できずにいるモノというのがワタシにはいくつかある。今回はその中でも特に気になっている物件について書いてみることにした。
ひとつは、中学の時に図書館の画集かなにかで見た絵。描かれているのはひとりの少女。目隠しをされ、不安定そうな球体(これは地球を象徴しているらしい)の上にうずくまっている。少女の手には竪琴が携えられているのだが、その弦は一本をのぞいてことごとく切れてしまっている。その残された一本をいつくしむように、さぐるようにつまびく少女の指。
この絵のことを今でも忘れられないのは、それにつけられたタイトルのせいである。どこをどう切っても陰鬱なこの絵は、「希望」と題されていたのだ。
もうひとつは、これもたしか中学くらいのころに耳にした詩。どっかのクラスが朗読大会にむけて練習していたのを聞いただけなのだが、その中の一節だけを妙に記憶している。それは、「生きよ、生きよ、死んでも生きよ」というものだ。朗読大会のネタになるくらいだからきっとそれなりに有名な詩なのだろうが、作者もタイトルもわからないまま現在にいたっている。
もしこれを読んでいる人で、このふたつについてなにか知っているという方がおられたら、ぜひメールください。どうぞお願します。(19960427)
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最近読んだ本の話。
『100万人のよる伝説(伴田良輔編 自由国民社 1500円)』という本を買った。これは昭和30年代に発行されていた『100万人のよる』という紳士向け娯楽雑誌(よーするにエロ本)をリミックスしたものなんだけど、これが実にそこはかとなくてよいのだよ。
昭和30年代だから、出てくるおねーさんの体型や容姿はかなりキツい。でも、今見ても驚かされるのはその斬新なアイデアだ。雪山でスキーを楽しむはだか女、はだか女の大島観光、はだかOLの一日、はだかにランドセルだけしょって小学校に通学……と、ほとんどハプニングアートのごとき世界が展開されているのである。日常の中に無理矢理「はだか」という非日常を挿入するこのアヴァンギャルドな感覚。……って、ヨコモジ使やいいってもんじゃないですね。とにかくヘンでおかしいのだよ。仏像とツーショットで写ってるやつもあるし。
他にも「日本人の早朝勃起率」だとか「女性性感の一番強い部分(筆者調)」だとかいったいわゆる「性科学モノ(キンゼー報告とかああゆーやつね)」など、タメになる話題がマン載(←ああ……すまん)。実用にはあんまりならないと思うが、笑えることだけは保証する。続編も出る予定らしいので楽しみである。(19960422)
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たまにはマジな話を。
沖縄の楚辺通信所にある個人所有地が不法占拠され、この国がアメリカの植民地であることが政府によって認められたいま。ワタシが一番気になるのは、このことに対していわゆる「右翼」と呼ばれている人たちがどう考えているかということだ。もしかするとワタシが知らないだけで大きなムーブメントを起こしているのかもしれないが、とにかく新聞やテレビではその動向を確認することができない。
日本の領土を侵犯されて、かれらは怒らないのだろうか? 自主憲法に基づく自主防衛を標榜するかれら(そうじゃない右翼もいるかもしれないけど)は、戦後「平和」憲法とアメリカの戦略の矛盾の申し子である「安保」と、さらにそこから生まれた現在の沖縄の状況に異を唱えないのだろうか? それとも、かれらは沖縄人を「皇国にまつろわぬ民」として視界から切り捨てているのだろうか?
ワタシは右翼に怒りを感じているわけでも、奮起してほしいと思っているわけでもない。ただ、かれらの意見が聞きたい。いまマスコミにあふれているのは「中道ちょい左」、つまり「あたりさわりはないけどちょっと辛口だよ」という物言いと、取材対象としての市民団体(たいてい左翼)の意見だけだ。住専に、薬害エイズに、環境問題に、震災復興に、かれらはどんな意見を持っているのか。それを広く聞ける手段はないものだろうか。街宣車のあのひどい騒音とは別の手段で。
『国を憂いて何が悪い』という題名の本を書いた人がいた。ワタシはその作者の意見に与する気はないが、タイトルにだけは共感したくなる。いまはまさに「憂国の世」だ。右翼も左翼も関係ない。たしかなのは、この国はこわれているということだ。どうすれば修復できるのだろう。いや、どうすればだれもが「この国はこわれている」ことに気づくのだろう。ワタシはこの国を大筋で気に入っているので、とても悲しくなる。
ひととき悲しくなるだけで、すぐに日々の仕事に埋没していくのだけれど。(19960404)
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実はホームページ扉のメールアドレスのところに、CGIによるフォームを新設した。誤動作するとヤなのでとりあえずひっそりとはじめたのだが、さっそく和田拓さんからこのフォームを使ってのメールをいただいた。どもありがとうございました。ちゃんと送られてくるのが確認できて安心。
さて、みなさんには「単純なフレーズが頭の中をグルグル回り出して困った」ということはないだろうか。「耳について離れない」というやつだ。実はワタシには、これが頻繁にある。最近では映画『ジュマンジ』のTVスポットで流れる「じゅまんじ〜」という男声コーラスが耳にこびりついてしまった。寝入りバナなんかにふと思い出してしまったら最悪である。虚空に響く「じゅまんじ〜」が去ってくれるまで寝つけない。あと、Me&Myだっけ、「ドゥビドゥビドゥビドゥビドゥドゥドゥ、ドゥビドゥビドゥビイェ〜イェ」ってウタがあるでしょ。あれも脳を侵食して困る。きっと記憶にこびりつくように計算されたフレーズなんだろうけど、それがテキメンに効いてしまう自分が悲しい。無意識のうちに歌ったりしてるもんなあ。どびどびどび。これってやっぱり思考にスキが多いってことなのか。(19960331)
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どうも、ホームページのコンテンツをなかなか更新できない。仕事が忙しくて時間がないというのもあるが、どのコーナーもけっこう「文章書くぞー!」と大上段にかまえてしまってるのが悪いようだ。「そこはかとないよしなしごとを書き綴る」と標榜する本ページがこれではいかん。と、いうわけで、せめてこの「よしなしごと」のコーナーはどんなくだらないことでもいいから頻繁に書いていこうと思う。つまり日記ってことか。いわゆる電脳日記にはしたくないんだけど。
んで、とりあえず、最近観たり聴いたりしたモノドモのことを。
まずは筋肉少女帯の新盤『ステーシーの美術』。オーケンが自ら「自分のためのセラピー」と位置づけたソロ2作(『Only
you』『I STAND HERE FOR YOU』)を聴いてそのフニャチンぶりにげんなりしたものだが、その影響はやはり筋少としての活動にも影を落としてしまっていた。もうダメダメ。これまでの筋少の持つ「自分を嘲ることでしか自己を確認できない者のこっけいな悲しさ」がまったく消えている。ああ、もう筋少はいいや。でも「以前の筋少に戻ってくれ」っていうのはつまり「心が癒されたばかりで悪いけど、オーケンもっぺんこわれてくれや」って言うのと同じなわけで、これもあんまりなハナシなんだよなあ。ま、がんばってCMソングとか作ってください。
ビデオ。巷で話題のアニメ『エヴァンゲリオン』の1〜4話を観る。たしかにすごい。特にオープニングに込められた情報と象徴性には圧倒される。なんというか、「観るとこれについて語りたくなる作品」「人を饒舌にさせる作品」というカンジ。でもヒトの話ではこのあたりまでがエヴァの面白かったピークで、先ごろオンエアされた最終回は非難轟々だったとか。うーむ、どっちにしろワシが最終回まで観られるのはいつの日か。
『エド・ウッド』は、題材が題材だけにもっとバカバカしい展開を期待してたのだが、意外にしんみりした作品だったのでちょっと驚く。ベラ・ルゴシがもうそっくりで感動。スポンサーの干渉に激怒してスタジオを飛び出したエドにオーソン・ウェルズが「自分の夢のためなら戦え」と言うシーンでは、不覚にも泣いてしまった。うーむ、こんな映画だとは思わなんだ。
『ジャッジ・ドレッド』。こちらはもう期待どおりのシワなし映画。スタローンは世の中で何番目かにキライな人間だけど、臆面もなく「ワシが法律じゃあ!」と叫ぶこの役は彼にしかできまい。冒頭のいかにも無計画に造られたような都市の情景は、ブレランの亜流ながらけっこうよかった。クライマックスのチェイスシーンで画質が荒れるのはちょっとがっくしだったけど。(19960329)
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「とにかくこれだけはやめてくれ」と言わずにいられないコトが、世の中にはたくさんある。それらは「やめろ」と言われた側にしてみればヨケーなお世話に違いないのだが、やはりどっかで叫んでおかないと精神衛生上よろしくない。というわけで、突然ながらここで勝手に「禁止令」を発布させていただくことにする。
まず禁止したいのは、よくポップカルチャー系の雑誌とかでみんながやってる「手をアゴに当てるポーズ」だ。親指と人差指で「貧乏人のチョキ」を作り、それをアゴにあてがう。そのアゴを突き出し、カメラを下目づかいに見る。こう書いてもピンと来ない人のために、いま7秒かけて描いた図を載せておく(<図1>)。ね、いるでしょこういうの。
ワタシがこのポーズに嫌悪感を抱くのは、けっしてこのポーズそのもののせいではない。「おんなじポーズをみんなやってる」のがヤなのだ。要するに凡庸ってことですね。ここで念のため言っておくが、ワタシは「凡庸であること」はちっとも悪いこととは思わない。でも、「自らの凡庸さに無自覚である」のはものすごくみっともないことだ。こいつらは、きっと自分がとてもクールな人間だと思い込んでいるに違いない。ああ恥ずかしい、貧乏人のチョキのくせに。
ここにワタシは『そこはか通信』の名のもとに、「手をアゴに当てるの禁止令」を発布する。とりあえずテイ・トウワがやめたらみんなやめると思うので、ぜひともやめてくださいテイ・トウワさん。
あと、これはどっちかというと写真を発注するエディターやデザイナー側の問題であるが、「手をパーにして前に突き出す」構図もそろそろやめてほしいと思う(<図2>)。ピントがてのひらの方に合ってたりしたらもう凡庸度200%である。パーを人様の前に突き出してよいのは喧嘩芸骨法とコニーちゃんのジャカジャカジャンケンだけだ。(19960217)
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とりあえず漫画のハナシでも書かせていただく。今一番面白い漫画家といえば、やはり田亀源五郎だ。きっとこの名前はまだ知らないヒトの方が多いだろうが、それは彼の漫画がいわゆる「ホモ漫画」、それもマッチョなヒゲクマ野郎がひたすら陵辱されるというかなりキッツいジャンルに属することに起因する。
しょっぱなからホモネタで「なんだかなー」とか「こいつホモか」とか思われるかもしれないけど、好きなんだからしかたがない。ワタシはゲイの話題をするときにあらかじめ「私はゲイではないが……」と予防線を張る人間がだいっきらいだ。んなこたどーでもいいじゃん。ワタシは自分のセクシュアリティをゲイだとかストレートだとかに分類する気はこれっぽっちもない。分類できるほど豊富な経験もないし。いちおう尻は処女だけど。
閑話休題。ゲイ雑誌に掲載されている漫画は数多いが、それがちゃんと単行本にまとめられ出版されることはまずない。そんな中、田亀は長編『嬲り者』と短編集『柔術教師』の2冊の単行本を上梓している(いずれもBプロダクト刊)。それほどゲイたちの特別な支持を得ているということだろう。
田亀作品の基本コンセプトは先述のとおり「クマ野郎陵辱」の一語に尽きる。主人公は例外なくデブ専好みの筋肉質アニキで、それが徹底的に暴行、監禁、調教されるというのが定番ストーリーだ。描写は凄惨を極め、ときにはペニスを焼いたり尻肉をけずったりといった猟奇の世界に突入していく。
だがこれがノーマルなエロ本に載っているいわゆる「SM漫画」と違うのは、どんなに陵辱の方法が過激化しても、「辱める側」と「辱められる側」の間に絶妙の「呼吸」が描き込まれているということである。凡百のSM漫画が対象をいたぶって組み伏すことに終始しているのに対し、田亀作品では受けと責めの応酬があくまで「人間のいとなみ」として描かれる。だからこそ、暴虐の限りを尽くされた奴隷男がやがて嬉々として御主人さまの小便を飲むような展開になってもあまり違和感がないのだ。
田亀源五郎の漫画には「愛」がある。それは物語に描かれるようなマッチョな男たちへの愛であると同時に、自分のセクシュアリティへの自信に満ちた愛だ。田亀は自分の持つベクトルを全肯定している。その前では、「とにかくホモはヤだ」という空虚な先入観はあまりに無力だ。がんばれ田亀先生! 一般誌にも描いてくれ!(19960211)
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