永らくこのコーナーもごぶさたしてしまっていた。引越しやら何やらのドタバタで忙しかったとはいえ、一番新しい文書が「サカキバラネタ」なのはあんまりなので、またぼちぼちとくだらないことを書いていこうと思う。
さて、ワタシはゲーム雑誌のライターをやってるのだが、最近は仕事の中心がコンシューマー(特にプレイステーション)に偏ってしまい、PCのゲームはかなりごぶさたの状態だった。で、ひさしぶりにガバッとPCゲームを買おうと思ってショップに行ったところ、あるひとつのソフトがワタシの目をガッチリと捉えた。
極道育成シミュレーション『鉄砲玉仁義』(東映ビデオ株式会社)。
育成SLGが一ジャンルを画すようになって久しいが、なんといっても「極道育成」である。しかも制作が東映。結局ワタシは、この1本だけを抱えてさっさとレジに向かったのだった。帰ってすぐプレイしたいから。
舞台は当然のごとく大阪。チンピラにイジメられているところを極道に助けられた主人公は、任侠にあこがれてその世界へ入ることを決意する。だがヤクザの道は厳しい。体力や知力、そして男気を磨いていかねば、一流の「侠(おとこ)」にはなれないのだ……。
てなわけで主人公は「現場作業」「ダフ屋」「ポン引き」などのシノギをこなしながら各パラメータを上げていかねばならないのだが、例えば「現場作業」を続けると「知力」が著しく下がっていったり、「ポン引き」を繰り返せば「男気」が減ったりとなかなかままならない。しかもしばしば街のチンピラから因縁をつけられて戦闘になってしまうこともある。これがなかなか勝てない。途中で逃げたりするとまた男気が下がっていくわけだ。
それでもなんとか修練を積めば、構成員として認められ舎弟を持つことができるようになる。もちろん舎弟を持つ身ともなれば下の者とのコミュニケーションも必要となり、酒を飲ませたりソープへ連れていってやったりして親睦を深めなくてはならない。最初から最後まで大変なゲームなのだ。
さらにすごいのは、このゲームのパラメータに「指」というのがある点だ。説明書によればこのパラメータは「大きな失敗をすると減る。減りすぎると武器が持てなくなる」のだそうな。できれば減らしたくないパラメータではある。
この作品はパッケージにも明記してある通り「マルチエンディング」ゲームなのだが、よほど周到にプレイしていかねばバッドエンディングとなってしまう。むろん、この場合のバッドエンディングとは「極道の才能なしと見なされ、カタギに戻されてしまう」ことなのだが。
するとなにか、最高のハッピーエンディングってのはやっぱり「鉄砲玉となって華と散る」ことなんか。(19980118)
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あらゆる意味でうんざりする件の小学生殺害事件だが、ワタシがこれについて感じていることは実のところただ一言で言い表すことができる。
「みんな、勘繰りすぎとちゃうん?」
とにかくいろんなところでいろんな人間がこの事件を「読んで」いる。犯人像の推理にはじまって犯行声明の意味、時代背景や土地柄との関係性……だれもが犯罪心理学者にでもなったようなつもりだ。そして中学生の容疑者が現れたら、今度は「なぜこんな子供がかくも凶悪な犯罪を」ということについて解釈しはじめる。
だが、そんなことにいったいどんな意味があるのだろう。殺されたのが小学生であろうとなかろうと、また殺したのが中学生であろうとなかろうと(一般論として「容疑者」と「犯人」との混同は避けるべきである)、この事件の持つ意味は「人が人を殺した」、これ以上のものではない。重要なのは現在あきらかな事象から「事実」を組み立てていくことであって、その裏に何があるかを邪推したり、あるいはそこから犯罪の類型を抽出したりするのは余計なお世話であろう。
とくにわからないのは、この犯罪を現代の社会構造と結びつけようとする考え方である。やれ最近の残虐な娯楽メディア(マンガや映画)の影響だの、教育の諸問題が作り出したひずみだの、そんなふうに「意味」をつけてやる義理がどこにあるのか。この事件の犯人は単なるイカレポンチのヒトゴロシである。こういうイカレポンチはいつの世にも一定量いるのであって、別に現代社会に特有のものではない。過去にも凶悪な殺人や虐待はいくらでもあったのだ(そのもっとも顕著な例はもちろん戦争である)。もしそういった行為の原因を社会に求めるのなら、その社会を構成していた人間はすべて犯罪者予備軍ということになりはしないか。
たしかに、ある犯罪の背景を検証してその根本を糾し、今後の犯罪抑制に役立てるのは重要なことなのだろう。だがそれは専門家の仕事だ。シロートのわれわれがてんでにこの事件の「物語」を作るのは、無意味なばかりでなく危険ですらある。そのことをわれわれはまだ学んではいなかったのか、かつての連続幼女殺害事件やオウム関連事件で。
ワタシも野次馬的な興味として、犯人が何を考え、どのような過程を経て犯行に至ったかは知りたい。しかし、そこらのにわか学者が勝手に付与したサブテキストを読まされるのはごめんだ。学校制度とおたく文化を批判しただけでこの事件を読み解いた気になっている連中の意見ならなおさらである。(19970702)
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先日雑誌を読んでいたら、フェロモン香水の広告で「イタリア人から抽出したフェロモン配合」という文句に遭遇した。ものすごく見てみたい、抽出してるとこ。
さて、前回ちょっと触れたNHK教育の趣味百科「うたに振り付けを(月曜午後9:25より)」のハナシである。この番組でレクチャーされているのは演歌とかムード歌謡とかいった通俗的な音楽に日本舞踊風の振りをつけて踊るというもので、一般には「新・新舞踊」とか「歌謡舞踊」とかいう名で呼ばれている。ワタシは「素人名人会(関西でやってる視聴者参加の演芸コンテスト番組。ジジババの娯楽満載)」でこれをしばしば目にするようになってから気になってしかたなかったのであるが、まさかNHKで番組ができるほど普及しているとは。
で、この歌謡舞踊というジャンル、やってるヒトビトはもちろん真剣なのだろうが、門外漢から見ると別の部分で実に滋味深いのである。ここで、歌謡舞踊の魅力について少々分析してみたいと思う。
言うまでもなく、歌謡舞踊のベースとなっているのは日本舞踊である。日舞にはそれなりの伝統があり、また完成された芸能としての権威もある。芸道うんぬんや師弟制度といった、伝統芸能を権威づけるのに必要なミスティフィケーション要素も揃っている。だが、「歌謡曲に合わせて踊る」というものすごく俗っぽい行為に、この伝統芸能のメソッドをそのまま移入してきているところに歌謡舞踊の「味」がある。お師匠さんが「芸の道とは」と諭しながら厳しく踊りの所作を弟子に伝える、でも踊ってる曲は「天城越え」、そんな世界がまぬけでなくて何だ。この「歌謡」と「舞踊」の間にあるいかんともしがたい差異が作り出す一種の「きしみ」が、歌謡舞踊の第一の魅力である。
情景や人の感情を身体の動きで表現するのが踊りというものだが、この根源的な点でも歌謡舞踊は他の舞踏と一線を画している。踊りの所作が、ものすごく曲の歌詞に忠実なのだ。NHK「うたに振り付けを」のテキストを例に取ると、「天城越え」の「あなたを殺していいですか」という箇所の振り付けはこうである。
「左足、右足と上手に出して、小首をかしげ『殺していいですか?』と尋ねるしぐさ」
「いいですか?」って聞かれても困ると思うが、歌謡舞踊というのは一事が万事こうなのである。「肩の向こうに あなた 山が燃える」というところでは手で山を作ってみたりするし、「夜桜お七」という曲の「赤い鼻緒がぷつりと切れた」という歌詞の部分など本当に自分のはいている下駄の鼻緒をはずしてみせるのである。具象的というか歌詞を尊重しているというか、まあありていに言えば即物的なのだ。この振り付けのなんとも言えない「匂い」は、動いているところを見ていただければ充分に理解していただけるだろう。
最後に特筆しておかねばならないのは、この歌謡舞踊を極め、それを人々に教える「お師匠さん」の魅力である。踊りのお師匠さんであるから、それはすなわち権威である。えらそうなのである。でも、やってることはまぬけの一語。先に書いたこととつながってくるが、このギャップが絶妙な「キャラ立ち」をつくりだすのである。
もちろん、お師匠さん本人が生来持つDNAレベルの味も大きい。特に男性に「いいキャラ」が多い。たるんだホッペタに薄い髪、でも妙に目元がパッチリしてたりして、どうにもちぐはぐというか、「踊りの師匠」というフィールド以外では使いみちのない感じ。なんかものすごくひどいことを書いているが、そこが素晴らしいのである。特に件の番組の第2回で「夜桜お七」を踊った深山豊扇氏には強く魅かれた。恋しているかもしれない。
そんなわけで歌謡舞踊の魅力を語ってきたわけであるが、このジャンルは近いうちに大ブレイクするような気がする。いや、ブレイクしなければいけない。ワタシはここに断言しよう。97年は歌謡舞踊の時代だ。(19970220)
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