いまNHK教育で月曜夜9時25分からやっている趣味講座「うたに振り付けを」というのが面白い。演歌やムード歌謡に振りをつけて踊る、いわゆる「歌謡舞踊」の講座なのであるが、これがもう実に味わい深いのだ。このジャンルについてはいずれ一項を設けなければならないと思っているので、くわしくはその時に。とりあえずはこの番組観てください。絶対笑う。
で、本筋は例によってマクラとは関係なく、「コワいもの」のハナシである。とくに「コワい絵」について今回は書かせていただく。ワタシは昔からけっこう怖がりで、昼間見聞きしたコワいモノを夜中にふと思い出してトイレに行けなくなるということがしょっちゅうあった(実は今もわりとある)。とりわけワタシを恐怖させるのはやはりビジュアルなイメージだ。といってもワタシは心霊写真とか水木しげるとかはわりと平気で、人体模型や解剖写真などのスプラッタ系もエニシンオッケーな子供であった。では何がコワかったのかというと、それは「だまし絵」である。
たとえば、有名なだまし絵に「娘と老婆」というのがある(図参照)。これは一見うしろを向いた娘の顔を描いた絵のようだが、この娘の耳を目、顔全体を巨大な鼻、首のラインをあごとして見ると老婆の顔になるというものだ。ワタシはこれが今でもコワい。夜に思い出すとトイレに行けない。突如浮かび上がる老婆の顔もコワいが、ワタシは最初見た時にはふたつのイメージを分離できなくて「巨大なひとつ目をこちらに向けたのっぺらぼうの女」と認識してしまった。これも相当にコワい。
まあこの図の場合はコワさを理解していただけると思うが、ワタシにはこればかりでなく他の「だまし絵」もおしなべてコワい。ルビンの壷もコワいし、国芳の浮世絵もコワいし、「矢印をつけると長さが違って見える線」とか「しま模様の上でゆがんで見える正方形」とかいったものまでコワい。おそらく、こういった錯視図形を見ていると自分が信じている感覚がゆらいでしまうからコワいのだと思う。「おまえの見ているもの、おまえの感じていることはぜんぶうそだ」と言われているみたいで。
もうひとつ、ワタシがコワいのはムンクの「叫び」である。なんだ、と思われる向きもあろうが、まあ聞いてほしい。ワタシがコワいと感じるムンクの「叫び」は、一般によく知られている油彩画のあれではない。実はあの「叫び」には線画のバージョンがあって、その線画の「叫び」がワタシにはものすごくコワいのだ(ところで、この絵で叫んでいるのが中央の人物だと思っている人がけっこういるようだが、叫んでいるのは人物ではなく背景である。中央の人物は周囲の空間が発する叫びに恐れおののき、耳をふさいでいるのだ。一応念のため)。
馴染み深い油彩の「叫び」において、中央の人物の表情は茫洋としている。ところが線画の「叫び」では、恐怖にゆがむその顔面がしわの一本一本にいたるまでくっきりと描かれているのだ(参考:これが線画(木版画)版「叫び」)。これはコワい。めちゃくちゃコワい。なによりコワいのは、油彩画の方の「叫び」で厚く塗り込められた人物の顔の下にも、この表情が隠されているにちがいないという想像である。
あとワタシのコワいものとしては「カニの口もと」とか「アジのぜいご」とかいろいろあるのだが、これらはまた別のハナシなのであらためて。(19970211)
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ピッキートークページ見切り発車。続くか否かは周囲の反響にかかっている。って、ホントはワタシが飽きないかどうかの問題なんだけど。
(19980323付記:結局ピッキートークページは、作ってほったらかした挙句に廃止しました。ごめんなさい。でもいずれ改めてやります)
さて、先日新しいレンタルビデオ屋の会員になったのだが、これまで利用していた近所のTSUTAYAにはないタイトルをけっこう揃えているので重宝している。近所のTSUTAYAはあまり大きくないので、回転の悪い作品はほいほいと捨ててしまうのだ。というわけで、その新しいビデオ屋で借りてきた作品の数々について。
田宮二郎主演の、いわゆる「犬」シリーズの一編。くわしいレビューはこちらを見てもらった方がいいと思うが、とにかくこの田宮演じる主人公・鴨井大介のイカすことといったら千両である。田宮二郎と言えば「白い巨塔」の財前かさもなくば「タイムショック」で冷徹に司会進行するあの姿しか知らなかったワタシにとって、大阪弁で丁々発止のマシンガントークを展開し、クールなガンアクション(拳銃で峰打ちするのだ)を見せる本作の田宮は実に新鮮である。ルパン三世における銭形のような役割を演じる「しょぼくれ刑事」こと天知茂や、オカマのふりをして秘密結社に潜入する調査員・財津一郎といったサブキャラも最高。このシリーズには他にも数編あるはずなのだが、残念ながらビデオ屋には「早撃ち犬」以外は置いていなかった。観たい。
アニメ。原作は言わずと知れた竹宮恵子。もうかれこれ18年くらい前の作品になるが、今観返すとなかなか趣深い。特にすごいのは声優のキャスティングで、今もっともうさんくさい俳優として注目されている志垣「あかんたれ」太郎をはじめ、生きてるのか死んでるのか消息不明の井上順一、元祖フシギ女の秋吉久美子、涅槃に旅立つ直前の沖雅也、もはや「基本」と言っていい岸田今日子、何しに出てきたんだかよくわからない薬師丸ひろ子……と、めくるめく豪華キャストである。これがみんな声優慣れしていないうわずった声で演技するもんだから、作品は一種独特のテイストをかもしだすことになる。とりわけ、盲目の占い師フィシスを演じる秋吉久美子の地を這うような声といったら、巨大コンピュータ・グランドマザー役の岸田今日子を軽く凌駕する無気味さだ。そういえばこの作品をアフレコする際、志垣・井上・秋吉・沖の四人は「キャラクターへの感情移入を深める」ためにコスプレして演技していたと記憶している。そのときの模様を載せたジ・アニメが最近まで押し入れの中にあったのだがなあ。
あの「幸福の科学」が作ったスペクタクル布教映画である。ワタシは劇場公開時に観に行くつもりだったのに、用事ができて見逃してしまった。以来この作品を眼にすることはなかばあきらめていたのだが、まさかレンタルビデオ屋に置いてあろうとは。
ストーリーは、まあ一言で言えばない。ノストラダムスを狂言回しとして、大川隆法の著作や「幸福の科学」の教義をもとにした断片的なエピソードが適当に詰め込まれている。天界で神々が協議しているかと思ったら、突然何の脈絡もなく宇宙人が侵攻してきたり、なんだかよくわからないうちに天変地異が起こったり、めまぐるしく場面が展開していくのだ。んでラストは、アジア某国(四方八方どこから見ても北朝鮮)から救世主のおわす国・日本へ発射されんとする核ミサイルを、「幸福の科学」会員が祈りのパワーで斥けるという感動的なもの。CGを駆使したトクサツがかなりすごく、なんとなく最後まで観てしまう作品ではある。ある意味で「タワーリング・インフェルノ」や「日本沈没」などといったパニック映画の正統継承者と言えるかもしれない。
ごぞんじヤコペッティのあれ。昔テレビでやってたのを観た記憶があるのだが、そういう平和な時代はもう二度と来ないのであろう。よくこの映画について「非白人の文化圏に対する差別と偏見で満たされた醜怪な作品」と評する向きがあるが、今観直してみるとはたしてその評価がどれほど正しいか疑問になってくる。確かに本作の姿勢は下世話で偏見にあふれ興味本位で香具師根性丸出しなものであるが、その品性下劣パワーは有色人種ばかりでなく白人にも、いや世界のすべての事象にあまねく行き渡っているとは言えないか。ヤコペッティはそういう意味では実に平等である。平等に差別している。すばらしいではないか。
以前ちいさい時に観て記憶に残っているネタに「いろんな身長の人間を並べてビンタして音楽を奏でる」というのがあったのだが、残念ながら本作には出てこなかった。どうやらそれは「続・世界残酷物語」のエピソードらしい。やっぱり「続」も観るしかないのか。(19970203)
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前から気になってはいたのだ。しかしだからといってこういうものを何のためらいもなく買ってしまう、そんな人間になってしまっていいのか。ワタシは今年28になるいいオトナである。それに、これはけっこう高い。値が張る。オプションを揃えたら3万円に達してしまう。そんなものを簡単に買えるほど現在のワタシの経済状態はよくはない。
だがそんな垣根は、梅田キディランドのショーケースを見た瞬間にもろくも崩れさってしまった。カラーピッキートーク・キャンペーン特別パッケージ 「ふぁっくすステーション」付属でお値段1万8百円。
買った。
「ピッキートーク」というのはカシオから発売されている子供(女の子)向きの電子手帳である。外形はちょっとかわいいザウルスみたいで(ちゃんとタッチパネル用のペンもついている)、スケジュールや住所録はもちろん占い、ゲーム、そしてバーチャルペットの飼育まで多彩な機能を備えている。だがこの「ピッキートーク」のすごいところはそれだけではない。オプションの「ふぁっくすステーション」というカプラを使うことによって、電話回線でデータをやりとりできるのだ。
やりとりできるデータは住所録と、そして手書きメモ。つまり「画像通信」が可能というわけである。「グルービーネット」というテレフォンサービスもあり、そこでイラストコンテストやスペシャルイラストの配布などが行われている。
これは立派な通信端末である。コドモだけにこんな面白いものを独占させておいてよいものだろうか。大のオトナがピッキートークでジャンクな絵や情報をやりとりするというのも、なかなかにソソる話ではないか。なんか少女のたいせつな領域を土足でふみにじるみたいで。
しかし、ああ、今のところワタシの他に、いいオトナでピッキートークを持っている人間は周りにいないのだ。当たり前だ。そんなボンクラはめったにいない。そこで、これを読んでいるいいオトナ諸氏、あなたもピッキートークのユーザーになってみないか。そしてワタシとともにボンクラネットワークを広めてみないか。もちろん、すでにピッキートークユーザーであるという人のカミングアウトや、オトナの世界をのぞいてみたい少女ユーザー(いるんかい)もカモンジョイナスである。ワタシは近々ピッキートークのページをこの「そこはか通信」に設ける所存だ。今まで有言不実行を連発してきたが、今度は本気である。本気と書いて「マジ」と読むくらい本気である。同志の連帯を望む。反響がなくてもひとりでやる。店員の「おくりものですか?」の問いに「はい」とウソをついてまで手に入れたピッキートークである。極めねばなるまい。(19970122)
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当ページ「勝手邦題」を読んでくださっているbazilさんという方からチクリメールが来て、はじめて「勝手邦題」が「からくちNET(芸文社)」に掲載されていたことを知った。「からくちNET」とはいわゆるホームページ紹介雑誌のひとつで、ライターが自分の判断で「辛口な」コメントをつけることをウリにしているものだが、かなりの数のネットサーファーやウェブマスターから白眼視されていると聞いている。理由はただ自分たちのページが批判されたということではけっしてなく、掲載に際してまったくホームページ制作者の了解を取らないことと、その「辛口コメント」というのが相当におポンチなことにあるようである。
ワタシや他の人のページに対する「からくちNET」の書き様に義憤を感じたbazilさんは、こんなコラムやこんな宣言をご自分のページに掲載している。たしかになかなかエキセントリックな雑誌ではある。でも「辛口コメント」のエジキとなった当人としては、実はそれほどハラも立っていないのである。
ホームページの内容を批判されること自体は、ワタシはとてもよいことだと思う。ワタシはウェブという公開の場にホームページを発表した以上、それがどのような形で他人に扱われてもしかたがないと考えている(コンテンツやデザインの無断使用は法で保護された権利の侵害であり、これは別次元のハナシである。念のため)。天下の往来に風呂敷を広げた人間は、その風呂敷をけなされようとツバを吐きかけられようと甘受しなければならない。その批判が正当だと感じれば吸収し、そう思わなくても「世の中には違う考えの人がいる」ことを認めねばならない。それができる強さを持った人間だけが「表現」----つまり「自分の思いを表に現す」ことを許されるのだ。こういう「批評に対する心構え」のできていないメディアというのは、つまり成熟していないということである。
まあ「からくちNET」の問題はそういう原則論以前のところにあるようで、ひとことで言えば文章が批評にも紹介にもなってないということらしい。思うに、この雑誌のライターはかなり劣悪な条件で執筆を強いられているのではないだろうか。1日で500本分書けとか。ワタシもライターのはしくれなので、せっぱつまったライターの苦労はよくわかる。でもいくら忙しくてもホームページを見ないでそのコメントをつけるという芸当はできないけどな(そうしてるとしか思えないのがたくさんあるんだよ)。以前にも書いたが、自分で自分のことを「辛口」とか「毒舌」とか言ってる人間にロクなのはいないよなあ。自分で言うなってそんなこと。
……んー、やっぱりわし、ちょっと怒ってんのかなあ。いかんいかんオトナゲない。
(19970117)
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ひと月ほど前からトップページに「イタ電専用留守電ライン」なる電話番号を公開しているのだが、なかなかメッセージを入れてくれる人がいない。入っていても知己からのものがほとんどで、期待している「得体の知れないヤツ」からのコールがあまりない。さみしい。ま、うちのホームページはトップページから入ってくる人があんまりいなくて、ブックマークしてくれる人のほとんどは各コーナーに直接来る(勝手邦題なら勝手邦題だけとか)ようだから、トップに告知しても目立たないってのがあるんだろうけど。逆探とかしないから、だれかイタ電してくれないかなあ。
(19970624補足:結局この電話は廃止しました。番号を覚えてる人は忘れるように)
ここんとこさっぱりいいことがない。これは日記ではないので「さっぱり」の内容はいちいち書かないが、どうにもローギアでしかたがない。こういうときには、ワタシは「ものを煮る」ことにしている。それはカレーであったり豚の角煮であったりラーメンスープであったりするのだが、とにかく時間をかけてなにかをコトコトと煮ていると、多少なりとも鬱々とした気持ちがまぎれてくるものだ。
最近よく作るのは「鶏のポトフ」である。これはシンプルで安上がりなのがいい。材料は鶏のもも肉にベーコンのブロック、ニンジン、ペコロス、セロリ、じゃがいも。これだけ。あとは塩と黒コショウとブーケガルニ。これらをひたすら大鍋で煮る。
鶏のもも肉は、あらかじめ塩をすりこんで冷蔵庫に数時間置くか、塩水に一晩つけておくと身がしまっておいしい。1本まるごとか、せいぜい膝関節で二分する程度の大きなかたまりで使う。
ベーコンはスライスじゃなくてブロックのものを買う。これを200グラム分ぐらい入れて煮るとスープにコクが出る。
野菜類は好みで。普通の玉ねぎではなくペコロスを使うのは、その方がカタ崩れしにくいから。玉ねぎがグズグズになったのがいいんだ、という向きは玉ねぎをどうぞ。玉ねぎを切らずに一個まるごと入れるというのもオツかもしれない。セロリは入れると香りがよくなる。葉の方も捨てずに、ハーブのつもりで鍋に入れる(もちろん葉の方は途中で鍋から出す)。あ、あと、じゃがいもは火が通る時間を逆算して、できるだけ最後に入れるのがよい。スープが粉っぽくなると悲しい。
材料は家にある一番大きな鍋で水から煮る。脂っこくなるのがイヤな人は鶏を下ゆでするとよいが、完成した後に鍋を冷やして脂を固めてから取るという荒ワザもある。4、5時間も煮ていると、かなりいい感じのスープが出てくる。味つけは塩とコショウ。
ポトフの常道としては、具とスープは別々に食べる。鶏の肉は骨から外して皿に盛り、骨は鍋に戻す。で、スープが減ってきたら水を足してまた煮る。うまくやれば1週間ぐらいはスープを楽しめる。書いててなんだかわびしくなってしまったが、チキンスープが常に台所にあるとけっこう重宝するものである。ごはんが余ったらこのスープでおじやを作るのもよい。
というわけで、今回はお料理教室してみました。なんだこりゃ。まーこういう駄文書きも煮物づくりと同じく精神安定の手段ってことで。あー日記よりタチ悪いねえ。くだんねえくだんねえ。(19961206)
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きのう新聞を読んでいたら、毎度おなじみ『女性自身』の広告が目に留まった。もう語り尽くされた感はあるものの、やはりこのテの女性誌の見出しはすごい。今回ワタシが刮目したのは以下の一文である。
マイケルの受胎妻 こんな“逆美人”
「逆美人」もどうかと思うが、なんといっても「受胎妻」である。受胎妻。なんだそりゃ。新しい妖怪か。まさかマイコーの妻も、こんな極東の国で受胎妻よばわりされているとは夢にも思っちゃいないだろう。おちおち受胎もしてられない。
これで思い出したのだが、以前病院で『女性自身』を手に取ったとき、表紙にこんな見出しがあった。
羽賀研二 22センチの仰天
これは要するに、羽賀研二のアレが22センチあるというハナシだ。平常時3.5センチの朝顔ちゃんであるワタシには少々思うところもあるが、まあどうでもよい記事であると言えよう。
しかしその見出しの下に次の文を見つけたとき、ワタシは思わず嘆息してしまった。
ちなみに本誌の横幅は21センチ
このたった15ワードが添えられただけで、いまひとつ実感のない「羽賀研二22センチ」に揺るぎないリアリティが与えられたのだ。今自分が持っている本の横幅、プラス1センチ。デカい。瞬間、あたかも自分が『女性自身』のかわりに羽賀の男性自身を手に持っているかのような錯覚にすらとらわれるではないか。
ワタシもライターのはしくれなので、こういった見出しやキャッチのインパクトには常に心を砕いているつもりである。だがやはり女性週刊誌のそれには遠くおよばない気がする。おそるべし女性誌。そしておそるべき羽賀研二。
あ、ところで、あれだけ流行らそうとキャンペーン張ってさっぱり流行らなかった「ツインカム夫婦」は今どうなってるんでしょうか。(19961114)
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そうそう、すっかり忘れてたが、以前「別冊宝島のインターネット本用のコラムがボツになったらここに載せる」と書いた。このコラムは結局めでたくボツになったので、こっちに置いておくことにする。ヒマならどうぞ。
さて、最近読んだ本の話。「電波系(根本敬+村崎百郎 太田出版)」。タイトルのとおり、いわゆる毒電波で動いているヒトビトについて書かれた本である。共著になっているが実質的な著者は村崎百郎で、根本敬は一種の客寄せパンダ的な役割のようだ(そのパンダに引っかかったってことだなワタシも)。
この本、電波界(なにそれ)では有名な「湊文書」をはじめとする怪文書を多数採録していたりして、資料的にはなかなかのものである。だが、この村崎というライターがどうにもうっとうしい。なぜなら、彼は文中ことあるごとに「自分も電波系の人間である」「俺もキチガイだ」と喧伝するのである。
最近こういう「自称電波系」の人間がものすごく増えているが、そういうのはほぼ100パーセントの確率で「ハズレ」であると断言してよい。自分で自分のことを「狂ってる」と言える人間が、本当に狂っているわけはないのだ。真の電波受信者というのは自分のキチガイさにまったく無自覚であり、まさにその「無自覚さ」こそが人々を感動(ここでは見ていて心がむずがゆくなるという情動をあらわす)に導くのである。
80年代、のぼせたようなしゃべりかたをして「わたしって変でしょ〜」というポーズを取りまくる「変ぶりっこちゃん」が大量発生したことがあった(宝島読んで戸川純聴いてるようなねーちゃんね)。世にはびこる「自称電波系」はそれと構造的にはまったく同じだ。「変」にあこがれて「変」になろうと努力しても、無自覚でナチュラルな「天然変」にはかなわない。電波系が好きなら電波ウォッチャーに徹すればよいのであって、自分も無理に電波を受信しようとする必要はないのだ。村崎氏も「GON!」などのゴミあさり記事はなかなか笑えるが、それってお仕事でしょ。「この企画って変で過激だろ」という「ネライ」が見えてくる限り、電波系ならではの面白さは生まれ得ない。
同じように、自分で自分のことを「アブナいやつ」と言う人間にアブナいやつはいないし、自分で自分のことを「辛口(毒舌)」という人間が本当に辛辣な発言をすることはない。「ぼくって弱い人間なんだ」という人間は実はけっこう強い人間で、「オレはオレのことが嫌いだ、死にたい」という人間はたいてい自分のことが好きで好きでたまらない。自分で自分にレッテルを貼る人間をけっして信じることなかれ、である。まったく、夜中にささやきが聞こえたりカッターで自分の手の甲を傷つけたりコードをはずした電話が鳴ったり、それくらいのことで「電波系」を自称しないでほしい。そんなことならワタシだってしょっちゅうだよ。(19961025)
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なんかここ数日、パソコン通信の掲示板を中心に「志村けんがガンで死亡した」といううわさが流布しているのだが本当だろうか。
……と、このハナシはおいといて、今回は電線音頭である。以前このページで「電線音頭の源流さん」について少し話題にしたが、最近読んだ「70年代カルトTV図鑑(岩佐陽一 ネスコ刊)」という本に注目すべき情報を発見した。この本は「みごろ! たべごろ! 笑いごろ!!」に1章を割いており、そこでこのように述べられているのだ。
「電線音頭を最初に踊ったのは桂三枝である」。
なんでも、桂三枝が単発のスペシャル番組において披露したのが電線音頭のはじまりで、それが視聴者に好評だったことを受けて「みごろ! たべごろ! 笑いごろ!!」に導入されたのだという。「電線音頭=ベンジャミン伊東」という図式ができてしまっている我々からすれば、桂三枝とは意外な名前のように思える。
だがワタシはこの情報を得て、かえってもうひとつの説に対する確信を強くした。それは「電線音頭の真の源流さんはお座敷芸である」というものである。なぜなら、これに関して桂三枝には「前科」があるからだ。
誰でも知ってるポピュラーな遊びに「あっちむいてホイ」というのがある。桂三枝は、これを発案したのが自分だということをことあるごとに喧伝している。たしかに三枝が司会をしていた「ヤングoh! oh!」や「モーレツしごき教室」などの番組から「あっちむいてホイ」が広まったのは本当かもしれないが、これだって大元はお座敷遊びなのである。桂三枝はお座敷で覚えたネタをテレビに流用するということを、けっこうやってるようなのだ。そういえば「たたいてかぶってジャンケンポン」など、三枝の番組でやっていたゲームには他にもお座敷遊びっぽいのが多い。
まあ、電線音頭をはじめてテレビの電波に乗せたという功績が桂三枝にあるということは否定できないだろう。三枝に敬意を表するというようなことはワタシの人生において二度とないと思うので、ここで称えておくことにする。ありがとう三枝。
付記:この「70年代カルトTV図鑑」という本は、全体的にちょっと文章がズレてるような気がするが、取り上げる番組のセレクトがなかなかシブくてよい。なかでも、あのフリークス野球アニメ「アパッチ野球軍」をフォローしているのは評価に値する。あー観てえもう一回。(19961020)
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最近、サボテンを集めるようになった。日がな一日パソコンとにらめっこして過ごすワタシの、これがせめてもの憩いである(ここの影響もある)。サボテンというのはほっといてもけっこう育つものだが、手をかけてやるとまたそれなりの楽しみが広がる奥深い植物である……らしい。ワタシはいまのところ、花屋の店先で面白い形のサボテンを見つけるなり衝動買いするだけのミーハーなサボテンビギナーなのだけれど。
さて、サボテンのことを考えるとき、ワタシはあるひとりの作家のことをつねに思い出す。かれの名は龍膽寺雄(りゅうたんじ ゆう)。昭和初期を中心としたごく限られた期間に活躍した小説家である。
鮮烈で鋭利な、まるでガラスでできたナイフのごとき文体を持つこの作家は、しかしある筆禍に巻き込まれてその筆を断ってしまう。かれの数少ない作品はいま単行本にも文庫にもなっておらず、それに触れるにはけっして部数の多くない全集を当たるくらいしか手段がない。かくいうワタシも、ちいさなころに偶然図書館で彼の全集のうちの数冊に出会ったきり、かれの作品を読んだことはない(蛇足だが、美人のことを「シャン」と言う昔の流行語はかれの手になるものである)。
断筆したかれは二度と文壇に、いや俗世に向けて口を開くことはなかった。そのかわり、かれは後の生涯をサボテンの研究に捧げたのだった。サボテン研究の世界において、龍膽寺雄といえばパイオニアであり白眉であるらしい。「勇壮丸」「月宮殿」「万物相」などといったサボテンの和名も、そのほとんどはかれの手になるものであると言う。
かれは断筆後サボテンに関する図鑑などのほかは一冊の本も上梓することなく、数年前に他界した。かれの生きたあとを知るのはほんのわずかの作品と、かれに名付けられたサボテンたちだけだ。
数年前から「おれは断筆した」と騒いでいる小説家がいるが、龍膽寺のことを思うときその振る舞いはひどく空虚に映る。断筆と言いながらメディアにはあいかわらず出しゃばってグチをこぼし、収入と発言権だけは確保して、あまつさえ雑原稿をかきあつめて「断筆作家の本」の宣伝文句で売りさばくことまでする。
文筆を糧とする者が筆を断つということは、そんなに安易なことなのか。おのれを閉ざすことによってしか訴えられないことを訴える、いわばおのれを殺す覚悟を必要とすることではないのか。断筆宣言してからもズルズルとモノを書く人間のフィールドにいすわっているくらいなら、なぜしっかりと自分の筆を持って闘わないのか。いや、べつに闘うばかりがいいとは思わない。ただ、ほんとうに筆を断ったのなら、もうなにもモノカキのことについて語らないでほしい。ジャマだから。
なんだか激してしまった。サボテンは感受性が強くて、イライラしている人間の近くで育つとトゲが鋭くなるというがほんとうだろうか。ワタシはカンシャク持ちなので、さぞやビンビンのサボテンに育つことだろう。(19960924)
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