沈黙のピアニスト映画化・ピアノマン役は我修院達也に
ジジババの安眠の友と呼ばれて久しいNHK『ラジオ深夜便』。ワタシも毎晩これをつけっぱなしにして眠るのを習慣としている(たまに中村メイコのエロドラマに安眠を妨害されるが)。この『ラジオ深夜便』に、先ごろ新しいアンカーとして宮川泰夫という人が加わった。
この宮川アナ、ついこないだまで『のど自慢』の司会をしていた人だけにジジババのあしらいは上手いのだが、どうも本人は相当のロック好きであるらしく、しばしば番組で60〜70年代ロックの特集を組んだりする。最初はサンタナあたりで様子を見ながら、最近だんだん調子に乗ってきて、ついにはキング・クリムゾンやピンク・フロイドまでオンエアするようになる始末。あの老年の牙城・ラジオ深夜便でプログレ特集。この行為こそまさにロックと言えよう。おそるべし宮川アナ。
しかしやはり本人も「深夜便でロック」はかなり浮いていることを自覚しているようで、ことあるごとに「ご年配の方には耳障りかもしれませんが」とか「つとめて安眠を妨げない選曲を心がけております」とかいった慇懃な言い訳を忘れない。ワタシにとっては、宮川アナがロックをかけるときの、このおっかなびっくりな姿勢も楽しみのひとつなのである。
こないだもクラプトン特集をやっていたのだが、『いとしのレイラ』は『アンプラグド』バージョンで、しかも盛り上がるサビの部分はカットする配慮(?)を見せていた。そこまでしてなぜ深夜便でクラプトンを……という気もするが、これが宮川アナの深夜便におけるロック革命なのだ。がんばれ宮川アナ。
宝くじシミュレーター
汝、すべての希望を捨てよ。ワタシは映画の音楽が気に入ってもサントラに手を出したりすることはめったにないのだが、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』だけは劇場で観たあとCD屋に直行してアルバムを買った。とくに、『ORIGIN OF LOVE』という曲はワタシにとってのマスターピースだ。神の怒りによって引き裂かれた半身を人は追い求める----アンドロギュヌスの伝説をひもときつつ語られる「愛の起源」の物語は、セクシュアリティの垣根を越えて人の心を打つ。
この曲を聴くたび、ワタシの涙腺はだだもれになる。もうイントロがはじまった時点で泣く。ストレスがたまったときには、ワタシはこの曲を大音量でかけて思うさま号泣するのが習いである。そして映画ではこの曲にあわせてアニメーションのシークエンスが展開されるのだが、これがまた泣ける。ワタシにとって『ORIGIN OF LOVE』という曲は、このアニメと不可分な存在といっていい。これはもう、観てない人には映画を観ろとしか言えない。
で、こないだふとそのアニメのビジュアルを確認したくて、Googleのイメージ検索で「ORIGINE OF LOVE」を検索してみた。
すると、その1番目に出てきたのはだった。
「腐女子」という性の存在は、神々の想定の範囲には入っていたのだろうか。とりあえずワタシのアングリーインチは萎え萎えです。
おおひなたごう『フェイスガード虜』TVアニメ化!
……と思って観たら『アイシールド21』とかいうぜんぜん別のアニメでした。注:今回は一見食べ物ネタですが、最終的には非常にビローなハナシになります。お食事中のかたはお気をつけください。
ワタシは以前から「エビチリ」という食べ物に納得がいかなかった。「嫌い」とか「食べられない」というのではなく、これは思想の問題だ。
まず第一に「エビチリ」という名前に納得がいかない。エビ(日本語)+チリ(英語)。およそ中華料理っぽくない。特にこの「チリ」の部分が、中華の定番として長く君臨しているとは思えない「新参者感」をかもしだしている。正式名称が「干焼蝦仁(カンシャオシャーレン)」という言いにくい発音だから定着しなかったのはわかるが、なら全部和訳して「エビの辛子炒め」とかにすればいいのに。
第二に、味のベースがトマトケチャップであるということ。ケチャップっておい、中国四千年の歴史のどのへんから割り込んできたんだよ。ワタシのなかではケチャップは洋食のカテゴリーに属するモノ(それもナポリタンとかオムライスのケチャップライスとか、いちばん敷居がゆるゆるな部分担当)なので、この点でも「中華の定番料理」という一般認識とのギャップを感じる。
そして第三に、たいていのエビチリには砂糖が入っていて、口に運ぶと実は「甘い」という点だ。エビチリと銘打っておいて、しかもあんなまっ赤いけな色をしてるのに。ワタシは辛味偏愛者で、「ちょっとでも甘い料理」が総じてダメなのだが、エビチリは「オレ、からいよ」というポーズを取っているだけにタチが悪い。おまえ、エビ「チリ」だったらもっとガツンと、胃袋がきしむくらいの辛さを見せてみんかい! おまえなんかエビチリじゃねえ、「あまずっぱエビ」だよ!
……というわけで、こないだ自分で納得がいく真の「エビチリ」をつくってみた。味のベースは豆板醤。砂糖は使わず、コクは酒と少量の甜面醤で出す。そしてダメ押しに、荒びきの唐辛子粉(韓国産で香りの強いやつ)をたっぷりかける。
できあがりをさっそく試食してみる。うん、うまい。もはやこれは「エビチリ」とは別の食べ物だという気もするが、ワタシにとっては納得のいく味だった。ビールも進む。
ところがその夜、ワタシの腹を猛烈な痛みが襲った。やばい。エビに当たったのだ。深夜営業のスーパーで安売りしてたエビを賞味期限も見ずに買ったのが敗因か。夜通し繰り返されるハラの急降下。そして下ってゆくのは、自分自身で容赦ない辛味をつけた「俺エビチリ」のなれの果て。
真夜中のトイレで己がアヌスに襲いかかる未曾有の激痛に耐えながら、ワタシは「ああ、エビチリってやっぱりあれでいいんだ」と思い知ったのであった。
ビーフシチューをつくったら煮すぎてビーフがなくなっちゃったよ
おいしいよジャガイモおいしいよいまゲームボーイの『千年家族』というゲームにハマっている。いや、ハマっているというより「ハメられた」というのが正しい。ニンテンドーDS本体購入と同時に「なんか片手間に遊べるゲームを」と思って買ったのだが、これがいけなかった。
ゲームの内容は、プレイヤー自身が神となって、ある家族を数世代にわたって見守っていくというもの。まあ『シムピープル』とか『ルーマニア#203』みたいな「傍観ゲーム」である。神であるワタシは家族がそれぞれ仕事や家事や恋に奔走するのを見守りながら、ときどきパシリの天使(キュピット)を使ってその行動に干渉する。そうやって、最終的に家系を1000年間維持するのだ(なんかいつも仕事でやってるゲーム紹介記事みたいになってしまったが)。
このゲームの特長は、電源を切っている間にも家族内の時間が進行していくということだ。むしろ電源オフ時の時間経過のほうがずっと早いので(リアルで1時間ほったらかすだけでゲーム中で1年くらい進む)、プレイをいったん中断して再開すると、その間に家族がものすごいことになっていたりする。こないだなど、世帯主の父親を一流企業のCEOにまで導いて、家族全体のムードも最高の状態に持っていったのに、たった3時間電源を切ってるうちにオヤジが勝手に全財産をあやしい事業に投資して失敗、一家離散直前にしたうえ自分はフリーターになっていたということがあった。こんなことが頻繁にあるから、プレイヤーはいったんプレイを中断しても心休まることがなく、ついつい何度も電源を入れてしまうのである。ほとんど強迫観念だ。
ワタシのようにこのテのゲームが好きな人間にとっては、実はその「ままならなさ」こそが快感でもある。だからどんな逆境が襲ってきても、それを立て直すことがゲームの醍醐味と思ってプレイしてきた。年収1000万円超の夫がいきなり離婚で出て行ったときも、女大統領を目指して邁進していた娘が勝手に専業主婦になっても、ワタシは気を取り直してポジティブにプレイしてきた。
だがそんなワタシも、一度だけすべてのデータをリセットしてしまおうかと思ったことがある。それは、家族のキャラ全員がいつのまにかサングラスをかけた顔になっていたときだ。
曽祖父も祖父母もママもパパも、3人の子どももぜんぶグラサン。そんな家族ヤだ。あと「グラサンが遺伝する」という事実も。
明日夢くん、2代目仮面ライダー響鬼を襲名
こまっしゃくれたコドモが好きだ。自分のあさはかな経験だけで大人と対等に渡り合えると思い込み、生意気な口を利くコドモが好きだ。いや、もしそんなガキがとなりにいたらとりあえず5発くらい殴るとは思うが、そういう憎々しさも含めてコドモというのはすべからくそうあるべきだ。
コドモの生意気さを看過できない人は多いが、そういう人は自分のコドモ時代を思い出してみるといい。あのくらいの時期、コドモは何よりもコドモ扱いされることを嫌い、大人たちから押し付けられる「コドモのステロタイプ」に抗い、自分の全人生(ヒトケタだが)をかけてコドモである自分から抜け出そうとするものだ。少なくともワタシはそうだった。だから、今でも「コドモらしいコドモ」よりこまっしゃくれたコドモのほうが頼もしく思える。今日、『TVチャンピオン』で「小学生名探偵王選手権」というのをやっていた。ワタシはこれはひさしぶりに憎ったらしい、こまっしゃくれたガキどもが観られると大いに期待した。だが実際観てみると、たしかに出てくるコドモは妙に大人びて生意気なのだが、見ていてあまりムカついてこない。要所要所で「屈託のなさ」や「無邪気さ」などのいわゆる「コドモらしさ」を繰り出してきて、どうにもこまっしゃくれ具合が足りないのだ。
『天才てれびくん』などのNHK教育系番組に出てくるコドモたちもそうだが、これは「生意気なコドモは嫌われる」ということを理解したうえで、自らわざと「絶妙なサジ加減でコドモらしさを演じている」のである。そこには単に生意気であるより、もう一段深い小賢しさがある。なんかイヤだ。ああ、もっとストレートに生意気で、こまっしゃくれたガキが見たい。もっとこう、世界の国旗から国名をバシバシ言い当てたあとで答えられないアイドルをていねい語でバカにするような、そんなコドモが出てこないものだろうか。最近「チビっ子天才大集合」みたいな番組がめっきり減ってしまったが、まことに悲しい限りだ。
自宅で記憶なくすほど呑むのはやめたいと思う(下のまとめ)
そろそろいいかげん勝手中題の受賞者プレゼントを決めないとなあと思いつつ(←遅すぎ)、ひとり酒を呑みながら中国雑貨の通販サイトをひやかしていたある日のこと。リストの中のひとつの品物が、ワタシの目を釘付けにした。革命の父・毛沢東のりりしい姿。全高17センチ。しかも陶器製。これが突然郵送されてきたらどうだろう。毎回「勝手邦題」特別企画の受賞者プレゼントには「贈られるヒトが微妙にイヤーな思いをする」セレクトを心がけてきたのだが、まさしくそのためにあつらえたような品物ではないか。
そのときすでにかなり酔いが回っていたワタシは、次の瞬間この商品を8個注文していた。受賞者は7名であるが、あとひとつはもちろん自分用である。そして翌日、宅配便で巨大な荷物が届いた。ワタシはそれが、昨夜泥酔して注文した毛沢東の胸像だということを思い出すのにたっぷり15分かかった。梱包を解いてみると、続々とお出ましになる毛主席。
せっかくなので集めて写真を撮ってみた。とりあえず、いい買い物をしたと思う。
新年早々腰痛い。
本年もよろしくおねがいします。例の奈良の事件で、今年は少女に対しての性的嗜好をにおわせる表現がますます厳しく指弾されることが予想される。それは、まあある程度はしかたのないことだと思う。もともとこういう嗜好は隠れて楽しむからこそよいのであって、ことさら表現の自由をカサに来て権利を主張する種類のものではないと思うからだ。
だが、幼女への変態性欲を攻撃するなら、どうか「まんべんなく」やってもらいたいと思う。エロゲーや同人誌やフィギュアのようなわかりやすい事象に隠れて、この国にはもっと見過ごされた「ヤバいこと」が放置されている。たとえば、ワタシは前から森鷗外の『舞姫』が国語教科書によく採用される理由がわからない。16そこそこの娘を食ってはらませてあげくに精神崩壊にまで追い込む鬼畜ロリエロ小説を中学生に読ませて、教育者は何を伝えようというつもりなのか。
そんなワタシの思いをさらに強めたのは、このニュースだった。岩崎恭子が今26歳だという事実は、このさい関係ない。「岩崎恭子のヌード」というのは、記号論的にロリータ写真集だとワタシは思う。
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